この記事の概要を簡単まとめ!
- ブログについて語る Advent Calendar 2020 15日目記事
- ブログ自体ははてなブログから参入したわりと新参
- 継続が難しく二度書くことを諦めた
- 社会不適合者の自覚と共にWordPressへ移行
- 続けていくうちに分かった「書ける自分」の存在
- 自信喪失状態の中で見つけた「できること」で自信を回復
- ブログ=人生の一部
- 私は「ブログクリエイター」として生きていく
12月はアドカレの季節とあって、様々な人が主催者として様々な表題でアドカレを作る。通常アドカレは25日のクリスマスまで行うので、参加可能な人数は25人である。だたし同じアドカレで1人が何度やってもOKである。表題によっては人が集まらないことは多いので、その場合は空白か誰かが2回以上やるか後で書くかである。
そんなアドカレで、表題が私にぴったりなものがあった。それが「ブログについて語る Advent Calendar 2020」だ。振り返ってみると、このブログを開いたのは現役で社会不適合者になりかけていた頃で、2019年9月26日が最初の記事である。その頃ちょうどクソブラック企業を掴まされていて、死ぬことばかり考えていた。実際には死ぬ勇気がないだけだったが。そのもっと昔を遡ると、はてなブログで2018年3月に本格始動していたことがわかった。ただ、半ば放置状態であったが。
初期の頃はまるで日記帳のように当たり障りもない、何の変哲もないことしか書けなかった私だが、WordPressに移行してからもそれはしばらく続いていた。しかし、いつからかは不明だが書くことに対する「抵抗」がなくなり、今では平然と10000文字を超す記事を書けるまでになった。そして、WordPress移行から19日目にしてGoogleとパートナー提携を結び、中国企業だが2社からソフトウェアレビュー依頼を受けそれを完遂したことがある。ブログをやっていると何が起きるかわからないものだ。
今回は私にとってのブログの意味、そしてブログをやるようになった経緯、そしてこれからのブログクリエイターとしての抱負などを語っていく。濃厚な記事になることだろう。
ひとっ飛びできる目次
※はじめに
本記事はブログについて語る Advent Calendar 2020 15日目記事です。飛び入り参加ですみませんが、よろしくお願いします。
リンクス岐部とブログ:はじまり
ブログを始めるきっかけ
ブログの基本的なこと、言葉の意味などは散々に解説されているであろう想定で省略するが、ブログを始めるきっかけは理不尽からだった。昔を思い出すことは私にとってはストレスのかかることであるのであまりやりたくないが、3~4年前くらいの大学2年の頃、ある実習実験での理不尽を食らい、そこから実習実験に出る「意味」を失ったときのことだった。
実習実験のレポートを書く必要があるのだが、デジタル化の時代に手書き強制、理不尽な修正再提出。出せる限りのことをしても結果は×で返ってくるということが多々あった。修正に関してはデジタルならまだしも資源の無駄となる紙ベースでレポート。一瞬の評価のために膨大な作業量のための時間と紙資源が何度も無駄になる経験をした。それが何度も繰り返されたときに、自分の中の糸は切れた。実習実験(講義)に出る「意味」を失った、こんなことは時間の無駄であると。その瞬間から、実験を「サボる」ようになった。
そうしてサボるようになった時、自分の将来を考えていた。実はこの時からうっすらと「普通の生き方」はできないだろうという予想がついていた。昔から「チームプレイ」ができず、思考停止に目の前のことをこなすということもできない。一般的に正社員、揶揄で社畜と呼ばれるようなスタイルは、私には合わないだろうと。その頃の私はひたすら、「正社員に向いていない」とか「死」関連のワードで怠惰にGoogle検索をしていた。その時、たまたまあるブログが目についた。
そのブログの詳細、そしてそれが誰だったかはもう憶えていない。ただ何故か、普段は気になることもないそれがどうにも気になって仕方なかったのである。その時の私はおそらく、解決策に飢えていたのかもしれない。だからこそか、ブログを始めてみようと考えたのだろう。そして最初に開設するのにいいブログサービスを調べ、検索結果に乗りやすいことやユーザー数が多いことからはてなブログを選択した。よって、私ははてなブログを最初のブログとしたのである。この時はまだ、未来がこうなるとは思ってもいなかった。
継続の難しさ:次第に書かなくなる
開設当初の記事は全て削除してしまったため、そのこともまた曖昧なのだが、おそらく自分のことについて書いていた。ほぼ日記みたいなものである。何の変哲もない、自分の心情や置かれている状況を書くだけのものであり、100均でノートを買ってきては書き殴るレベルの物でしかなかった。それをインターネット上のどこかのサーバーに保存されるような形で、誰かによって閲覧可能な状態にしていたのは、見てもらいたいという欲求があったからかもしれない。
当時のブログの傾向として、「毎日何か書く」ことが美徳とされていたようで、私もそれを鵜呑みにして書いていた。だがブログとは短文ではなく、繋がりのある文章を作りそれを他者に伝わるように書いていくものである。つまり、文章を構築するために短文或いは単語単位の構築や言葉の選定を何度も繰り返すことになるので、頭は疲れるし時間はかかるしで面倒であり、慣れていなければ毎日毎日書けるわけなどないのである。
当然、始めたばかりで右も左もわからない状況、ない頭を捻って考えだせば「短期間なら」書けるが、次第にネタが尽きて書くことが難しくなり、更新間隔が毎日から1週間、1ヶ月となり、更新期間が一度長くなれば自然と「面倒になって」書かなくなるのである。当時の私は、初めてから1週間は毎日書けていたのだが、その後は1日毎、2日毎…と悪化していき、憶えている限りでは3ヶ月経たないうちに書くことを辞めてしまったはずである。元々、飽きっぽい性格であったことと熱中できることにはとことん熱中する性格であったので、ブログの存在をすっかり忘れていたのもある。その時に継続することの難しさを知ったのである。
1年の放置の後のはてなブログ再開も
その1年後。気が狂ったのか、或いはやはりやりたいと思ったのか。はてなブログを再開させた。その際これまで書いてきた全ての記事を削除し、再編という形で整理した。再開した日は2018年3月3日。その日が第二のスタートであった。
ただ、肝心の岐部自信が変わっていないという問題があった。ブログの書き方だ。ブログの書き方が昔のままだったのである。そのため、再開してもまた毎日書くという、自分のスタイルに合っていないやり方をしてしまっていた。ほぼ日記帳のように書いていくも、取りまとめの無い文章と尽きるネタに、4月に入って毎日書くことはなくなり、5月9日をもってまたしてもブログを放棄してしまった。継続できなかったのは二度目である。
ただ、何も学ばずに二度目の放棄となったわけではない。当時書いていた記事のうち、PC関係や電子工作に関しては、現在の書き方にかなり近いものが出来上がっていた。本ブログの人気記事にもなっている、仮想メモリの話[初回][ゲーム特化]とUSBファンの自作である。はてなブログ時代でも同じテーマで記事を書いており、しかも(はてなブログ時代の)他の記事と比較しても内容が濃いものになっている。そのため、記事の書き方の大元はこの頃にできたものだと思われる。ただし、これを自然に実践できるようになるまでは、もう少し時間が必要だった。
リンクス岐部とブログ:転換期
二度目のブログ放棄からの復活
二度目のブログ放棄から復活するのは、2019年4月26日。その前にも書いているが、本業(卒研)が忙しくてそれどころではなかったため除外している。復活時の状況は大学を卒業し、間違って社畜の仲間入りを果たしてしまったところである。それもよく調べないまま人売り企業就職エージェントを利用して人売り企業技術系アウトソーシングに入社してしまうという大失敗を犯した。就活を適当にやりすぎたことを後悔したものである。と言ったところで真面目にやっても結果は同じだったかもしれないが。
二度目の復活からは、毎日書くことはやめた。ある程度考えながら書き、そして書きたいタイミングで書くようにした。そのため1記事の更新間隔は3~4日になった。これでもまだ書いている方であり、ただ中身は薄いものが多い。依然として日記帳だった。もっともその当時は本気で死にたくて仕方なかったことと、正社員という就業スタイルが合わないことで苦しんでいたということもあって、そういうものしか書けなかった。自分に余裕がなければ書けることも限定的になってしまうようだ。
ただそんな中で書き続けていたブログだったためか、内容が薄いことはあるものの安定して定期的に書くことはできるようになっていた。アーカイブを見る限りでは、最長でも1週間の更新間隔だった。もっともその時期は社畜をしていたため、書ける時間は限定的である。定時上がり、7時に帰ってきたとして2~3時間で毎日記事を作れと言っているようなもの、それは無理な話であるので更新間隔が長くなっても不思議ではないのである。
社会不適合者の自覚とWordPressへの移行
無能国家日本において、正社員=正規雇用を絶対としそれ以外の就業スタイルを否定する傾向が未だに根強い。そのため、非正規雇用を社会不適合者とするような考え方、一種の差別が存在する。その私はそれ以前に人間不適合者なのだが、日々合わない正社員として仕事をしているうちに、自分自身は社会不適合者であるという自覚が生まれる。チームプレイがうまくできない、環境や人に左右されやすい、正社員向きの性格ではないこと(消極的、怖がり等)。それに当時の会社が、オールドタイプの人間しかいない最悪の環境だったこともあって、一層その思考を強くさせた。やはり、私は社会に出るべき人間ではなかったのだと。
そんな中で、自分がこの先生き残るのはどうしたらいいかを模索し、1つの答えにたどり着く。それがブログの収益化だった。ネット上で様々な意識高い系先駆者がアヘリ8アフィリエイトやAdSenseによって一人で生きるには困らない程度に収益を上げているという事実は既に知っていた。だがそれには膨大な作業量と努力、道化のようにトレンドを追うこと、そして何よりも継続し続けるということ。達成するに必要なことが社畜一般企業の正社員の比ではないそれは、趣味で行っている人からすれば躊躇するものである。
だが私は、覚悟を決めていた。社会不適合者の自覚と、これから先正社員を含めた普通の仕事のやり方は私には合わないという自己分析。そこから導かれる道筋は2つに1つだが、完全に1つに絞られた。その際に私がしたのが、WordPressへの移行である。自分の活動場所を、どこかのブログサービスを利用した葡萄の房の中の1粒から、レンタルサーバーを用いて「自分のブログ」を作ることにしたのである。
はてなブログは、株式会社はてなにぶら下がっている1つのサービスでしかない。そのため利用規約がはてなに縛られる。それを考えると何か心苦しく感じる。また、これは噂でしかないのだが、はてなブログはAdSenseとの相性が悪く、その事例が頻繁に報告されていることもあって、はてなブログでの活動から乗り換える決意に至ったというのもある。そして来る2019年9月26日、最初の記事を公開し、WordPressでの活動が始まった。
真似から始まるWordPress
WordPressは自由にできる。それはブログの各パーツの配置すらも自由であることを意味する。半分くらいはその場の勢いで始めたこともあって、いくら自由と言ってもどうしたらいいかはわからないものだ。そのため、WordPress先駆者を真似することにした。はじめに真似したのは、追加CSSによる使ったページ全体の装飾である。冒頭簡易まとめ、見出しの装飾、目次の作成、LINE風会話の台詞、引用のカスタマイズ、リスト・番号リストの装飾を行った。このあたりは半分はコピペで、残りは必要に応じて自力でカスタマイズしたものである。
また、インターネットで自分のサイトを持つ場合に書いておかなければならないこと、WordPressの機能面においても真似した。どのサイトにおいてもプライバシーポリシー、免責事項は必須であるので書き方と内容を真似し、問い合わせフォーム、404ページ、サイトマップはプラグインによって実現している。このあたりのことは検索すればいくらでもやり方が出てくるので、苦労することはなかった。
それら先駆者達が後世のために、或いは備忘録として残したであろう情報は大いに役立ってくれたものである。それに感謝しつつ、だが真似ばかりしてはオリジナリティは現れない。そこで配色、配置、空白の間隔、文面、ヘッダー、フッター、スライダーに置く項目など、細かいがいくらでも改良できることについては改良を加えることで、これを私のオリジナルとした。この結果、WordPressで進めるには十分な準備となったのである。この準備は合わない正社員の仕事をしながらだったため、記事を書くのと並行で行っていた。そのため完成には少々時間がかかっている。だがそのおかげで、幸先いいスタートを切ることができたのである。
その後:Google AdSense合格の実力をつけて
ブログの大筋が完成した後は、書きたいことまたは書けることで記事を書いていく日々が再びスタートした。WordPressに移行したということで、今まで日記帳として書いてきたはてなブログ時代とはやり方を一変させ、ある話題について深堀りをして書いていくような形式に変更した。その書き方は「前置き→事実列挙→実体験(可能な場合)→意見→まとめ」であり、この形式にすることで自然と記述量が増えるようになった。特に赤で示した部分が私にとって重要で、この部分ははてなブログ時代にはあまり書かなったことでもある。このおかげで、割と書くのに苦労しなくなったのである。
さて、話は変わるが一般にブログの収益化は、みんな大嫌いアヘリ8アフィリエイトと広告配信ネットワークを通じた収益配分のどちらか、或いは両方の手段によって実現している。前者は殆どが1回の収益が大きい反面、手段が手段故に嫌われやすくなかなかユーザーが使ってくれない。後者はGoogleなどの大型広告配信ネットワークを持つ企業とパートナープログラムを締結し、自分のサイトでそのネットワークの広告を配信(設置)し、それが一定数閲覧されるまたはクリックなどのアクションによって収益が発生、それが配分される。広告はユーザーのCookieや記事内容に基づき、その時に応じた広告が自動で配信されるため、広告を選ぶ必要がない。割と見てもらえる可能性のあるタイプの広告である。代表例が見出しにもあるようにGoogle AdSenseだ。
そのGoogle AdSense(以下AdSense)は、当然ながらGoogleによる審査に合格する必要があるのだが、明確な合格基準はブラックボックスである。AdSense合格について書いた記事では巷で噂になっている合格基準(2019年10月~11月時点)について書いているが、私はそれに明らかに達していないにも関わらず、初申請で合格している。詳細はその記事に預けるが、AdSenseに合格したことは私にとって大きな自信になったのである。確実に実力はついていて、努力は裏切らないと分かった私。色々と流れが変わった転換期であった。
リンクス岐部とブログ:発展へ
取り扱うネタの拡張と持ちネタの獲得
AdSense合格後は、基本的に1週間に1本ペースで記事を書き続けていた。私にとってはこの方が安定して記事を書くことができるためである。初期の頃はAdSense合格も視野に入れていたためペースが早かったのだが、流石に疲れるのと内容がどうしても薄くなりがちなため、一旦の目標を達成したあとも自分で安定して継続できる方を取ったのである。私自身、相当に怠惰な人間というのもあるが。
ただ、自分の書ける範囲についてはまだ狭かったため、自分自身のこと、働くこと、PC/スマートフォン関係以外には殆ど書いていなかった。そこで私が取り扱うネタの拡張を行った。その方法が、主に「怒り」の感情を乗せて書いていくことだった。私が過去に書いた記事の中に社会批判・政治批判が存在するのは、これを実践した結果である。それにしても今の無能国家日本には怒りしかないが。早くデフォルトしないかな。
また、自分の持ちネタについても理解することができた。PC/スマートフォン関係はよく書けて、その時は非常に集中できることがわかったのである。なおゲームは大して書くことができなかった。自分の持ちネタの発見ができたことについても、大きな発見と言えるであろう。
続けていくうちに分かった「書ける自分」の存在
ブログを始める理由というのは様々である。私の場合は実に消極的な理由から始め、かつWordPress移行の時点で邪な理由になっている。だが、例え始めた理由がどうであっても、これを継続するというのは難しいことである。もちろん継続することに関してはブログ以外でも同じことは言えるのだが、開始当初は継続することが難しかった。途中二度も継続できずに放置したこともあって、完全に投げ出そうかとも思ったほどである。
それでも諦めきれず、或いはやることもなく、社畜も出来ないので、とにかく続けていた私である。だが不思議なことに、ブログを続けていくうちに自然と書けるようになっているのである。それは日を追うごとに明らかで、明確に意識していなかったのだが字数が書き終えた時に4000字以上となっていることは常だった。それどころか、次に書く記事が前の記事の文字数を上回るほど中身を書くことが多くなり、今では10000字を超えることが殆どになった。このときに分かったのが、私は「文字を書くことができる」ということであった。その根拠は過去記事の内容と、そして今現在も継続してこのブログを書き続けているという事実である。おそらく、はてなブログやnote他ではこうはいかなかっただろう。オウンドメディアとしての「リンクス岐部のブログ」だからこそできたことであると考えている。
自信喪失状態の中で見つけた「できること」で自信を回復
少し話が戻るが、WordPressに移行してからは社畜の仕事は2019年10月18日に半ば追い込みされる形で退職させられている。それ以降はこのブログで書くことに注力している。退職のさせ方がブラック企業のそれであり、その企業に憤りしかない。それと同時、そのことがやはり私は「社会不適合者」であるという決定的な一撃となり、当初は何もしたくないし早く死にたいと思っていた。今まで何とか保ってきた自分というものが粉々に砕け、全てを否定された感覚に陥っていた。所謂自信喪失状態だ。
もしそこで「普通の方法で」失った自信を取り戻そうとしても、きっとうまくいかなかったことだろう。何故ならすでに普通の方法は無理だと、その答えが出ているのである。それを無視して普通の方法を強行していたら、私は本当に死んでいたかもしれない。だから選択肢はなかった。私にはもうブログしかないと。残念ながら死ぬ勇気がなかったため、実質トニーの状態でひたすらブログに打ち込んだ。文字も打ち込んだ。
そのおかげだろうか、「書ける自分」の存在に気付くことができた。そのときに分かったのは、これは誇れることである、ということだった。おそらく同業から見れば「当たり前」のことであるが、だがブログをやっていない人からは「誰にでもできることではない」という評価を受ける。マストドンではこの評価を実際に受けた。つまり、凄いことである。誇っていいことだった。このことが私には素直に嬉しかった。同時に、これが私の「できること」であり、一番自信があることだ。このおかげで、私は何とか立ち直ることができた。収益が全くないためまだ不完全であるが、収益が上がってまともに生きられるようになれば、本当の意味で立ち直ることができるはずだ。
今回はこのくらいである。私のブログは今後もまた発展していくことであろう。書くことができたら、また別の記事で書きたいと思う。
リンクス岐部とブログ:まとめ
ブログ=人生の一部
さて、まとめである。私にとってのブログとは、人生の一部である。というのも、まだ十分な結果が出ていないが収益化しており、私が現状で一番できることであるからだ。軽い気持ちと収益化の邪な気持ちから始まった割には、まさか人生の一部となるまでの存在になるとは思ってもみなかったことである。
しかし冷静に考えてみれば、その流れは当然といえば当然だ。普通の方法、特に社畜になって懲役約45年(定年引上げの無能政策で今後増える可能性あり)なんてことができない私は必然と普通ではない方法を取らざるを得なくなったわけである。その際に選択したのがブログであった、それだけの話である。ただ、他にも選択肢はあって、ブログ以外のものを選んだとしても同じように人生の一部となっていただろう。実際他の方法についてもちょっと興味がある。
それはそれとして、今後も私はブログで書き続けていくし、余力があれば有料記事としてnoteに寄稿したり、クラウドソーシングで何か書くかもしれない。或いは動画投稿していたり、社畜ではないアルバイトや融通の利く派遣社員をやるかもしれない。だが私の基本は常にこの「リンクス岐部」のブログである。ここ無くして、私は語れない。したがって今後とも全力で書いていく所存である。
私は「ブログクリエイター」として生きていく
1つ重要なことがある。私は「ブロガー」ではなく「ブログクリエイター」だ。これを言うと何言っているんだと思われそうだが、私は「ブロガー」というERをつけただけの名称がなんとなくダサいと思っていて、もっといい言い方はないかと思って自分で作った名称である。ERは救急救命だけでいい。
これに関しては、明言した時期について正確に憶えていない。1つだけ確かなのはWordPressに移行した段階で既にそれを名乗っていたことである。過去記事でははてなブログ時代の2019年6月20日付の記事で初めて使用しているが、あくまで使用している事実だけである。その記事ではしれっと登場させているので、これより前から使っていたはずである。が、その詳細は誰も知らない。
さて、ブログクリエイターという言葉が果たして他で使われているのか、その事実については不明であるが、例えどうであれ私はブログクリエイターを名乗ることにしている。従来の「ブロガー」と呼ばれる職業(タイプ)との明確な線引きを行いたいのと、私自身が世界初の「ブログクリエイター」として世界初の人になってみたいという欲望。そしてなんとなく「ブロガー」はダサいから使いたくないという自分勝手。そんな理由であるが、真面目に考えても面倒なだけなのでこうした。その方がなんか楽しくていい。どうせなら楽しくやった方が得である。社畜は全然楽しくないが。
色々と書いてきたが、まとまりのない文章になってしまったようだ。次回があるときは、もう少しまとまりのある文章にしていきたい。その時はまた新しいことをしていて、ここに自慢のように書けるかもしれない。その時まで、頑張っていきたい。
以上、I AM THE BLOG CREATOR~私がブログを書く理由~であった。それでは、次回の記事で会おう。
リンクス岐部(LINKS-KIBE) at 00:00 Dec. 15th, 2020
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