まとめとかないです。雑記分類。人間の屑について書いているので胸糞注意。
【表層の平和の幻覚】希薄な人間関係~無駄な一喜一憂に「さよなら」を~
この記事の概要を簡単まとめ!
- 人間関係に苦しむ人はいつになっても多い
- 現代は人間関係は基本が「希薄」でボタン1つで関係を簡単に「オンオフ」できる
- 過去に何度も人間関係で苦しみ、「思想の相違」が人間関係を悪いものにした
- インターネット上での関係は「希薄」であることを前提とする
- インターネット上で見れるのは表面的、一部分でしかないことに注意する
- いなくなったらそれは単純な「思想の相違」だったと割り切る
- 希薄な人間関係に囚われず、しっかり見極めていけ
人間関係とはいつになっても面倒なもので、くだらないことに何度も苦しめられている。そうして1つずつ、人間関係の攻略方法を学んでいく。インターネットに資料が上がっていても、実際には実戦形式でしか経験値を積めないのがどうにも苛立たしいことである。
インターネット全盛期において人間関係の希薄さはより進行している。ボタン1つでそれが可能になり、繋がるのも離れるのもあまりにも簡単になってしまっている。それに気付いたとき、私はそんなことで一喜一憂していては身も心も持たないと分かった。それに「さよなら」を言いに行くことにした。
【若者のVR離れ】私がVRをあまりやらなくなった理由~目的とデバイスと代替手段~
この記事の概要を簡単まとめ!
- VRデバイス、アクセサリやモジュールは多数存在する
- VRはとりあえずVRChatやっとけという傾向がある
- それ以外のVRもプラットフォーム別でやれることと目的がそれぞれ異なる
- 追加デバイスの必要性、高額ゆえに万人に手が出せない問題
- VRで単に話すだけなら、その代替手段は多く存在する
- TDPTのようなカメラ1つでのフルトラは代替可能?(要検証)
- 元々VRを始めた目的はcleaちゃんとイベントである
- 配信であれば活用タイミングはあるが、内容は限られる
- クリエイターではないなら、フルトラは無理するな
ここ最近に思うことは、様々なものに手を出している結果、時間が足りないように感じるということだ。それらは殆どがやりたいことではあるが、同時にやらなければいけないことも増えて、そのバランスを上手く保ちながら生活している状況となる。できれば、その中のやらなければいけないことをAIか私の分身に押し付けて、やりたいことに集中したいという気持ちである。AIが殆どの仕事を横取りしてくれればそうなってくれるかもしれないが、どうやらもっと先の話であるようだ。
最近私はVRをしていない。それはこれより少し前に起きたことが第一の原因であるが、それ以外にも要因があることに気付いた。それはVRに必要な機材が揃っていないということだ。この機材というのはHMDセットのことではなく、身体に装着するセンサー類、所謂トラッキングデバイスや、部屋のどこかに設置してHMDの空間位置を読み取るデバイス、ベースステーションと呼ばれるものである。これらは今まではオプションとして存在していたが、VRの進歩によって今やあることが前提になりつつある状況だ。
しかしそれらは往々にして高額機材であることは間違いなく、そして消耗品である。ベースステーションに関しては部屋が広くなければ不可能であり、環境要因で導入できない人も少なくない。フルトラッキングでなければ人権はない、そう言われる日もそう遠くはない現代。VRをあまりやらなくなった理由について考えるとともに、そもそもの目的や代替手段などについて考えていくこととする。
【そしてビジネスライクへ】人間嫌いの独白:人間は根本的に「裏切るもの」だから
この記事の概要を簡単まとめ!
- 人間は醜い存在であることは旧リンクス岐部時代に提起した
- プレイスタイル的に「アンチ」が発生することはわかりきったことである
- 「敵ではない」存在にすら裏切られたことがあり、それが何度もある
- ある意味慣れたが流石に何度もやられるのは気分が悪いので対策する
- 人間の口はヘリウムや水素以上に軽いことは再認識しなければならない
- 内容よりも行動や態度、つまり非言語情報に答えが現れ、それを読み取るのが重要
- 最初から期待せず、深入りしないように動くことも対処方法の1つ
- ビジネスライクは普段の人間関係でも使える
- 自分すらも疑うことは時に必要なことである
- 人間関係で病む前に「性悪説」を前提に対策を立てろ
人間が、日に日に「嫌なもの」になっているのを感じる。それは誰のせいだろうか。あるいは人間がそもそも汚いものだからだろうか。もし私が人間ではない別の存在であったとしたら、私はきっと人間を許すことはなかったかもしれない。死滅させて浄化したいと、そう考えるはずだ。だが死滅させるには膨大な時間が必要で、人間が対策を立てるまでに全員を死滅させることができる感染力や拡大力が必要になる。やはり難しいであろう。
私にはアンチが多く、ファンは少ない。活動スタイルからそれはすぐわかることである。そして私は「敵ではない人間」にすぐ裏切られる。これを書くまでに至る1年の間にそれが何度も起きた。何度も経験したせいなのか、周りが全て敵に見えて、悪意を持って接近してくる。そう思うようになってしまった。全員がそうでないとは思いたくとも思えない。だが「コップ一杯の水に垂らされた一滴の致死毒」論が頭を巡り、どうやってもそこから抜け出せなくなってしまっている。
正直、もう裏切られるのには疲れた。何度も経験しているそれをまた経験してしまうと、きっと頭がおかしくなる。だが人と接しないわけにはいかないのが現実である。ならば、最初から入り込んだり自分から接近することはせず、常に一定の距離を保っていればいい。つまりはビジネスライクを普段の生活にも適用することである。このやり方については一定の反発が必ずあるが、そんなことは一切無視して、そうすることの重要性を説いていくこととする。
【気付けば終わってた】人間関係の「賞味期限」は存在する~構築と消滅の繰り返し~
この記事の概要を簡単まとめ!
- 人間とは実に面倒な生物である
- 「独りでは生きられない」は残念ながら正解であり、殆どで誰かと関わっている
- その過程で特定の人物と交流するようになる
- だが大半の人間関係は自然消滅しがちである
- 長く連絡しない・会わない人は自然消滅しやすい
- 例え「気が合う」同士でも思想の相違が決別の理由になる
- 友好的になるのは時間がかかり、絶縁になるのはほんの一瞬
- 逆にどういうタイプが長続きするのか
- もし「賞味期限切れ」であっても、どうせそんなものであったと割り切れ
人間とは面倒な生き物であることをつくづく思う。それと同時に、私自身、なぜ面倒な人間になっているのか、それを未だに考えている。人間であるから面倒だと思うのか、それとも時代や状態が悪いからそう思うのか。その答えは、人間として生きている限りわからない。もし人間以外の存在に私が成れたとき、人間を棄てて後悔するのか、それともしないのか。難しい話だ。
面倒といえば、人間同士の、所謂「人間関係」は非常に面倒なものである。人間は、自分のことですら理解することが難しいというのに、相手のこともある程度理解した上で、当たり障りのない関係を築き、平穏にやっていかなくてはならない。それは、自分が「嫌い」と感じる人でも原則分け隔てなく、である。みんななかよく、とは昭和の時代で終わりだ。
そんな中で特定の人物との人間関係を持つことがあるだろう。それは「友人」という2文字で表せるものであるが、友人を作るハードルはインターネットの存在によってかなり下がっている。しかしその分、簡単にその関係を切れることもあって、実質的には人間関係は希薄になりがちである。そんな中でも長持ちする人間関係は、貴重なものであろう。
しかし、私が近日中に経験したのが、割と長く続いていた、インターネット上の関係がばっさり切れてしまった人が数人いた。この経験から考えたのが、人間関係には繋がり方に依らず「賞味期限」が存在するのではないか、ということだ。タイトルからして既にマイナスな内容だが、だが人間関係について違和感を持っている人は未だに多い。したがって、自分へのメモ帳としても、今回はこのことについて考えていく。
【人間は醜い】人間は醜い存在!信用しないで生きるということ
この記事の概要を簡単まとめ!
- 人間とは醜い存在である
- 人間は簡単に他人を裏切る
- 自分を含めて人間を「信用しない」こと
- 信用しないことは「悪」ではない、「悪」と決め付けることもできない
- 人間を嫌いになる前に「信用する」ことを辞める
今はADHDを身近な人に隠しながら、ただ生きるだけの毎日を送っている。何もなく、何もせずの毎日である。経歴が酷く、何のスキルもない。しかもADHDを抱えている状態で、到底まともな仕事ができるわけもなく、そんな人間はどこに行っても追い返されるだけである。余っている仕事は、「皆が嫌う仕事」か「闇の仕事」しかないだろう。人権も選択権もなくなったも同然である。
それとは別に、よく考えることとして、「人間とは醜い存在である」ということである。他人を簡単に裏切り、権力を持った途端に独裁を始める、エゴイストの塊である。もし神が存在するというのなら、何故そのような人間の屑は消えないのか。存在していれば消えているはずなので、そういう意味では神は信じないし、同時に人間嫌いである。自分のことですら嫌いである。
そんな人間に対しうんざりしまくり、人間嫌いだが、死ぬ勇気も不慮の事故も起きないので割り切って生きなくてはならない。だがこれ以上人間でうんざりさせられるのも癪に感じる。その時分かったのが、「信用しない」で生きれば、何とも思わなくなるので人間を嫌いになることもない、ということである。