この記事の概要を簡単まとめ!
- 人間なら誰しも好きなものと嫌いなものがある
- 好きなものには時間や資金や努力を惜しまない
- 嫌いなものは離れないとストレスになる
- 嫌いから普通に「直す」のは無駄な行為
- 「好き」を伸ばすことこそ今後重要である
人間はほぼ同じ姿をしながら、それぞれの個性や能力が違っている。それが人間というものと言えばそれまでだが、個性や能力が違うのなら、好き嫌いも分かれるのは当然のことである。
だが日本は何をトチ狂っているのか、オールラウンダーを求める。嫌いを普通に矯正して、「ゼネラリスト」を目指そうとしている。しかし、それを無駄な行為と気付いた人や海外では、好きを伸ばして「スペシャリスト」になろうと努力する。好きを伸ばすのと嫌いを矯正するのとでは、効率も将来性も違うはずなのだが。
そこで今回は、嫌いなものを直さないでいい理由、そして好きを伸ばすことが重要な理由について、リンクス岐部独自の視点から紐解いていく。
ひとっ飛びできる目次
人間なら誰しも好きなものと嫌いなものがある
定義:好きと嫌い
人間なら、よほど感情が壊れるようなことをしない限り、好きや嫌いという感情が備わっている。この感情は、人間の行動原理にかなり関わってくるものである。好きなものに対しては積極的に関わろうと動き、嫌いなものは距離を取ろうと動くようになる。
ここで、今回ここで語るにあたり、好きと嫌いについて定義をする。なお、この定義はここだけで通用する定義である。
- 好きの定義:ある事象について、好感を持つ、積極的に関わろうと思う、自然と気になるなど、プラスの感情及び行動をもたらすもの。
- 嫌いの定義:ある事象について、嫌悪を持つ、なるべく離れようと思う、意図的にその情報を排除しようと行動するなど、マイナスの感情及び行動をもたらすもの。
上記の定義は、好きなものに時間・資金・努力を使い、嫌いなものは嫌いのままで良い、とするための根拠として使用する。
好きなものには時間や資金や努力を惜しまない
好きなものは何だっていい
さて、今これを読んでいる訪問者は、果たしてどんなもの、或いはどんなことが好きだろうか。所謂「趣味」であるが、これは公言可能なものから、公言不可能なものまである。とはいえ、犯罪行為に抵触しない限り、趣味という点では同じである。
趣味は往々にして、「好き」であることが殆どである。そのきっかけは些細なことからであったり、他の趣味からの拡大・拡張であったりと、様々である。それゆえ、気付いた頃には趣味になっていたということも多いものである。
好きなものに熱中すること、入れ込むこと
そして、趣味、つまり好きなものに取り組むとき、時間を忘れて取り組んだということはないだろうか。気付いたら1日経っていた、というくらいに。これ自体は悪いことはなく、趣味に全力な人として捉えられることが多い。たまに趣味にケチをつける人間がいるが。
そして、その趣味、好きなものに熱中して、つい入れ込んでしまうことがあるだろう。それは、資金と努力である。もっとその趣味を極めたいと思えば、金を使うことは惜しまない。勉強も苦労して、難しくて専門家でも分からないようなことを、平然と挑んでいけてしまうのである。ついでに資格まで獲得してしまうこともある。
これはやはり、「好き」であるからこそできることである。「好きこそ物の上手なれ」という諺にあるように、やはり好きなことは熱中できるからこそ、より高みを目指せるということである。その結果、いつの間にか事業となった例もあるため、好きなことに熱中することは馬鹿にできないことでもある。
その例に、事業とは程遠い存在であるゲームも、eスポーツが誕生し、あまり表沙汰にはならなくとも、1つのスポーツジャンルとして確立しつつある。また、YouTube Media Creatorも同じ、好きなことを動画にして配信し、その広告収入により生活することも確立した。好きなことを文字と画像に起こして書き記すブログも、媒体は違えどやっていることはほぼ同じである。一見全く事業として成り立たなさそうなことも、視点を変えると見えてくるのである。
嫌いなものは離れないとストレスになる
嫌いなものに対する行動
その逆に、嫌いなものに関しては、殆どの人がそこから離れようと、何らかのアクションを起こすはずである。それが物理的なものなら文字通り物理的距離を取り、インターネット上のものならそれに関連する情報を排除するといった形である。
普通誰でも、嫌いなものに自分から入っていこうとは思わないものである。そのため回避行動は理にかなった行動である。人間の本能としても、自分に害のあることに対しては無意識に回避するようになっているため、いたって普通のことである。
離れられない状況に置かれること
しかし、嫌いなものに対して距離を取ることができない状況に置かれることもある。これは社会人になってから、会社員として仕事をする場合に必ず発生することである。
会社員として働く場合、専門的な職種であっても、一般事務的なことをやらなくてはいけないことがある。例えば、従業員が少ない小さい会社であれば、事務員を雇用する金がないかケチっているかで、本来その作業をしない人がやらなくてはならないということがある。書類作業や来客応対、電話対応などは、本来事務員の仕事である。
しかも日本の悪しき風習なのか、これを右も左も分からない新入社員にやらせる会社があり、はっきり言って意味がわからない。どう対応したらいいか、さらにはローカルルールが存在し、その通りに返答しなければならないとか、無駄と面倒の極みとなっている。このようなことと、自分の特性もあって、電話対応はずっと嫌いである。
だが、「みんなと同じこと」が出来なければいけないとか、昭和の価値観に踊らされて、なぜかやらされる。そこに特性考慮や苦手考慮はない。嫌いなもの(こと)から離れられない状況に無理やり置かれることとなる。
嫌いなものは離れないとストレスになる
嫌いなものでも、それが一時的であれば耐えることができる。問題はそれが離れられない状況で、終わりが見えない場合、強いストレスになるということである。
ただでさえ、嫌いなものに関わらなくてはならないということで、気分も行動もマイナスがちになる。その状態で仕事をしても、いいパフォーマンスは得られないだろう。だが、会社はそれで評価を下す。しかも、他がよくてもダメなものがあると評価が上がらないという理不尽なシステムもある。そういう会社に間違って入ってしまうと、ストレスでそれどころではなくなってしまうことも十分有り得る。
嫌いなものから離れられないことでストレスが溜まり、それが身体や精神に異常をきたすことは分かっているはずである。実際、私はそのせいで腹痛や吐き気がひどくなり、気分は常に沈んだ状態となっていた。それで仕事ができるわけがなく、結果2回も退職することになってしまったのである。
だが、会社は何の責任も取ってくれることはなかった。自己責任で片付けられてしまい、残ったものは身体も精神も弱った自分だけだった。だから、おかしくなる前に退職したほうが良かったが、後の祭りである。
嫌いから普通に「直す」のは無駄な行為
会社で嫌いを普通に「直す」教育は無駄
先ほどのことを昭和世代が聞くと、「努力が足りない」とか「嫌いなものはなくせ」とか、私の嫌いな根性論を振りかざすことが多い。『昔は』そうだったのかもしれないが、古い価値観は現代では通用しないことを分かっていないのである。
その古い価値観のもと、嫌いなものを普通に「直す」ことについてよく語られる。嫌いなものを矯正して出来るようにすることで、何にでも対応できるようにすることが目的と考えられる。規模の小さい会社であれば、尚更である。
だが、嫌いなものを矯正させるのは、新人も教育側も時間と労力がかかる。また、矯正をしたからといって、出来るようになる保証はどこにもない。嫌いが普通になるだけであり、かつそれをやるにもストレスがかかるため、教育するだけの対価があるようには思えないのである。
会社(企業)はそれぞれの得意なことで、それぞれの不得意を補うような組織ではなかったのだろうか。会社も定義がガバガバすぎるような気がしてならない。
嫌いを「直す」必要はない
嫌いなものに関わるほど、ストレスと時間と労力の無駄であることは分かった。そこにコストをつぎ込んで、結果が得られなかったとしたら、非効率的なのは言うまでもない。
それでも矯正しようとする企業はそういう古い体質・価値観の企業でしかないわけで、解決策は新しく、時代適合した価値観を持っている企業に転職すればいいだけの話である。そういうところでなら、嫌いなものがあっても受け入れてくれる可能性は十分にある。
また、個人事業主、フリーランスである場合、信頼できる第三者に依頼するのも方法の1つにある。少し出費がかさむが、それでも嫌いなものにリソースを割くより効率が上がる。ついでに経済も回る。
現在は、嫌いなものを誰かが代行してくれるサービスや、誰かの得意で誰かの苦手を支える方針の企業が増えていることもある。したがって、無理矢理にでも嫌いを「直す」必要はないのである。ストレスを溜めないためにも、嫌いなら嫌いのままで、距離を取ろう。
「好き」を伸ばすことが今後重要になる。
今後の仕事がどうなるかは不明だが、少なくともPCで出来る作業の大半と、従来の事務作業はAIによる自動化が採用されることになるだろう。数十年単位で考えて、1回の導入コストと維持費が人件費を上回るとき、次々に採用されて、先に挙げた事務員の仕事は消えることになる可能性が高い。数字を扱う仕事は、最終的にプログラマーの仕事となるだろう。
実用化に課題が残っている自動運転だが、問題が解決すれば自動車と鉄道の無人運転が現実になる。横浜市営地下鉄ブルーラインの事故があったこと、監視や緊急時対応の目的から、運転士は消えないが、少なくとも自動車の自動運転で、ドライバー全般の仕事は消えることだろう。その他、AIに代替される仕事は多数にのぼる。近いうち、仕事の殆どが「無くなる」ことだろう。そうなると仕事として残るのが、感情労働か趣味=仕事か、である。
もし趣味を仕事にするにしても、その趣味がなかったり、あまり「好き」を伸ばさなかった場合、仕事に繋がることをするのが難しいことがある。自分が好きでなかったり、知識がなければそれを生かすことができないためである。
だからこそ、「好き」を伸ばしていくことが、QOLを上げること、今後に備える意味でも重要である。自分の極めた「好き」が、誰かの「需要」となり、そこに知識や技術を「供給」する。未来の仕事は、このようなスタイルになるのだろう。
なお、海外では「好き」が仕事になっていることがよく見られる。ディスカバリーチャンネル【名車再生!クラシックカー・ディーラーズ(Origin: Wheeler Dealers)】では、特定の車種に限定した修理業者や、特定のパーツの修理や製作が得意な業者が多数登場する。多くは、それが好きで集めていたり、自作をしていたら、需要があったので、そのまま仕事として成り立った、というパターンが多い。
残念ながら日本で車文化はオワコンなので、上記は絶対に流行らないと断言する。だが、それ以外の「好き」は、仕事になり得る可能性を秘めている。これを機に、「好き」を伸ばして極めてみるといいだろう。もちろん、責任の取れる範囲で行うこと。
以上、嫌いなものはそのまま、好きなものを伸ばすのが重要な理由であった。それでは、次回の記事で会おう。
リンクス岐部(LINKS-KIBE) at 15:17 Oct. 31th, 2019
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