この記事の概要を簡単まとめ!
- 非健常者が生きることは一部の人にとって苦行
- 自殺が許されないという一般常識
- 安楽死が権利として存在するスイス
- 無理矢理生かすのは果たして正しいのか
- 死は救いではない
なりたくてなったわけではないのに、病気や精神疾患や発達障害になってしまった。生まれたくてこの世界に生まれたわけではないのに、辛い家庭環境に生まれてしまった。誰も好きで選んだわけではない。誰だってそうなることは嫌である。そうでありながら、生まれてくる
しかし日本ほどこれらのことに関しては冷たく、自業自得で済ませて見放しては、それを嘲い見下して、マウントの対象にする。そこに一人の理解者も存在せず、孤独に生きることを強いる。身近な人が理解者となってくれればまだ助かるのだが、そうでない場合は本当に孤独のまま生きることになる。特に親に理解してもらえないということが多々見受けられる。
そうして辛い日々を送り、いつしか耐えられなくなったときに、死ぬことが頭に浮かぶ。この瞬間に、死=解放というシンプルで強力な式が完成する。しかし問題は、自殺は一般常識的に認められていないこと、いざ自殺しようにも死ぬのが怖いこと、痛いのは嫌であること、偶発的事故はなかなか起きないこと。それらの要件が重なって、死ぬに死ねなくずっと苦しんでいるということも多い。
そんな状況を解放する最後の手段として、スイスには安楽死が存在する。ただし今回は苦しみから解放されることについての「安楽死」について考えていく。
ひとっ飛びできる目次
非健常者が生きるということ
非健常者の定義
聞こえが悪いが、非健常者の定義を考える。
- 発達(精神)・身体・知的障害者と分類される人
- 身体的・精神的な病名を診断された人
- 実際に怪我をした、或いは何らかの病気によって身体の内面にダメージが発生した人、またはそれによる後遺症がある人
- 難病を患っている人
- 上記以外で、何らかの怪我、環境、精神的抑圧などで行動を制限されている人
大まかにはこのような定義になると思われる。要するに、「何ら制限を受けていない人」が健常者で、それ以外を非健常者としている。障害者としなかったのは、下2項目を障害者と分類するには難しいと思ったためである。一時的に制限を受けている状態は障害者ではなく非健常者としたほうが適当である。
しかし一時的な制限であっても、それが長く続く場合は障害者になる。場合によっては一時的な症状は治らず、一生付き合うことになる。例えば脳卒中によって身体に麻痺が残り、リハビリによっても完全に戻らずそれが一生続くとなれば、障害者という分類になる。症状が重ければ、身体障害者手帳の取得もあるだろう。
発達障害・知的障害と精神病に関しては、発症というより発覚であり、それがいつ発覚するかによって対応が変わってくる。それが子どものうちから発覚したら対応もしやすいが、大人になってから発覚するのが殆どである。その場合既に仕事に就かなければならない状態で、しかし早期退職してしまった場合やベテランなのに今更発覚して、今までもこれからも人生ハードモードで生きていかなくてはいけなくなるようなことがあるだろう。そのための(精神)障害者手帳があるが、気休め程度という認識が強いようだ。
適切な支援がなければ一部の人にとって苦行
非健常者でも、特別な事情がなければ普通に生活することになる。しかし生活上の制約は大きく、支援を要するのは想像に難くない。支援の内容は各個の障害や特性による。それらの支援があれば、まだ生きるには苦労しない。
逆に、支援がなければ生きることが苦行と化す。いずれの場合でも、自力では出来ないことが多いため、支援がなければ普通はおろか、簡単なことでも難しくなる。身体障害者の場合は出来ることが圧倒的に少なくなり、発達障害であればコミュニケーションの問題や不注意による怪我や事故などのトラブルに見舞われることになる。
その代表例となるのが発達障害の1つであるADHDだ。上記は不注意特性の例である。これらは通常、自分では意図しない・悪気のないミスを繰り返してしまうことが多い。しかしADHDをはじめとする発達障害は、外見からの判別はほぼ不可能である。したがって、殆どの場合自己申告制であり、察しのいい人以外はそれに気付けない。よってそれを知らない人からは故意にミスを繰り返していると見られ、勘違いされてしまう。その結果、何度も怒られることとなり、自信喪失や自主退職(勧告)・解雇などに繋がるということも少なくない。
なお、ADHDをはじめとする発達障害では、表向き障害者雇用の対象でありながら、実際は発達障害以外を選り好みをして使える者だけを採用していることが多く、発達障害は治療或いは認知行動療法によって特性が十分に制御される者以外は滅多に採用されることはない。この結果「働きたくても働けない」発達障害者が発生する。合ったとしても自立した生活を維持するには足りないほどの給与ないし工賃しか得られず、その場合生活保護がなければ生きられない状態になる。それすら出来なければ、実質上の死刑宣告である。
支援してくれる人がいればいいのだが、なければまさしく人生は苦行と化す。今後の無能日本政府は生活保護すら出来なくなる事態に陥る可能性も十分に考えられ、尚更苦行と化すだろう。非健常者というだけで、未来は暗い。
「死」と「自殺」と「安楽死」
自殺が許されないという一般常識
人は苦しい立場におかれ、その脱出手段の全てを尽くしてもなお苦しく、逃れるのも不可能と感じた場合、しばしば「死」によって逃れようと考える。そして「死」という状態を実現するため、その手段として「自殺」を実行しようとすることがある。
多くは熟考した上での「自殺」という手段の選択であるのだが、同時に一般常識として自殺は許されないものという認識がある。それは確かであり、宗教や国家を超えた共通認識であることもおそらく間違いない。
それにも関わらず自殺を選ぼうとしているということは、当事者にとっては「それしか他に方法がない」と視界がそれ以外に向いておらず、視界を回復する方法も自力では思いつくことができない状態に陥っているということを意味する。
これには解決方法が皆無でそれ以上発見できない場合であると同時に誰にも頼れず、誰にも助けて貰えないという、完全に見放された状態であるときに発生しやすい。そうでありながら、人前では気丈に振る舞い、何事もないかのように人を「騙す」。そして実行時は最低限の遺書を残すか、遺書もなしに誰も居ないところや誰も見ていないところで予告なしに実行する。そのため自殺を未然に防ぐことは、簡単に言われているものの、企図も実行時も発見が難しいのである。有名なスポットや人身事故の場合は分かりやすいかもしれないが。
もっとも、人間の本能として痛みや死からは遠ざかるように動こうとするようになっているので、いざ実行しようにも怖気づいて未遂に終わったり、直前で思い直して避けようとしても避けきれずに身体にダメージが与えられ、後遺症が残るだけとなったりすることもある。失敗するリスクも考えると難しい問題である。
「安楽死」という手段
さて、自殺が許されない上に失敗するリスクもある。それでも死を選ぶとなった時、安全で迷惑をかけない方法は何か。そう考えると、「安楽死」が手段として思い浮かぶ人がいるのではないだろうか。
しかし日本では安楽死は認められておらず、その制度も存在しない。これは法的問題(自殺幇助)や道徳・倫理観の問題が大きい。自殺幇助が法定である以上、安楽死を行った人は逮捕されることになるので、そもそも不可能である。改正しなければ実現しない。
仮に限定的に自殺幇助が合法となったとしても、死刑囚の死刑執行と同様、やってくれる人がいないことも十分考えられる。命あるものに対して、死を望んでいるとはいえその命を奪う行為である。安楽死を担当(準備)した人がPTSDに陥る可能性もある。ここに対するケアが十分に整わないと、いくら制度が整っていても日本では安楽死は望めないだろう。
スイスには安楽死が権利で存在する
安楽死を語る上で触れられるのが、スイスである。スイスでは自殺幇助は合法化されており、それに伴って自殺幇助団体が安楽死を担当する。自殺幇助に関する法規に関しては以下の通りである。
スイスの自殺ほう助
スイスでは1942年、「利己的な動機により他人を自殺させたり手助けしたりした者は罪に問われる」という条項が刑法に盛り込まれ、これにより「利己的な目的ではない」自殺ほう助が認められた。ジュネーブ大学のサミア・ハースト教授(倫理学)によると、当時は欧州諸国で自殺を犯罪の枠から外す動きが背景にあった。
例を用いて分かりやすくいわば保険金目的などで自殺幇助とかしたら犯罪で、本人の意思で死を望み、それを実現させるために自殺幇助を行うのであれば犯罪としないということである。詳しい規定はリンク先に譲る。
審査と確固たる意志が必要
リンク先の記事によれば、安楽死の際はまず自身が不治の病などで耐えがたい苦痛や障害を抱えている、死に直結しないがQOLが著しく低下する疾患で苦しんでいることが条件である。この規定だと発達障害は難しい。
そしてサービスを受けるためには団体の会員登録が必要である。なお有料。ボランティアではないので当然ではある。書面で申請して、団体が審査、これがOKなら安楽死の期日が決定するようだ。その後スイスへ渡航して3~4日滞在するが、この間に2回医師の面談を受けることになる。面談の結果医師が許可することで数日以内に準備され、ようやく「解放」されることになる。渡航にかかる費用は自己負担である。
このことから、書面の申請が通過してもスイスで許可されずに終わることもあると読み取れる。その場合は潔く帰ることになるだろう。本当に苦しく、生きることが死ぬことよりも苦痛であり、確固たる意志がある人以外は、本当に安楽死を望むか考えるべきである。逆に言えばスイスに渡航してからも思い直すチャンスがあるということであり、本気で考えていることが伺えるものである。
当事者とその周りのこと
当事者の「安楽死」と周りの「長生き」
もし当事者が病気などでこれ以上生きるのが辛く、回復も見込めないとなった時に安楽死を考えてそれを周りに伝えたとして、起きるであろうことが安楽死を思い直すように説得してくることである。特に当事者が若くて家族が存命である場合は、その家族から反対されることは想像に難くない。親であれば尚更である。
確かに、自分の子であるというのならたとえ何らかの障害を持っていたとしても、無関係に愛すというのが一般的である。加えて、通常子は親より先に死ぬと川を渡れず石積みをし、転生を待つという言い伝えがあり、それもあっての「引き留め」であるともいえる。果たして本当なのかどうか疑わしいが。
ただ、その引き留めは果たして当事者の意思を尊重しているものなのかといえば、その判定は難しい。他人の気持ちを完全に読むことは通常無理なことであり、いくら言葉を重ねても行き違いは発生するものである。或いは、意思疎通が完全に不可能な場合は、気持ち以前に何もわからないだろう。
その結果として、当事者の意思を無視して長生きさせようとすることも多々ある。この場合「延命治療」のような状態になると思われる。その場合、大抵は治療手段が揃っているため病院から出られないままでいるか、或いは自宅軟禁状態でいつも同じ景色・生活をすることとなる。
生きることに対して変化や刺激が殆どなく、ただ生かされているだけの状況は、当事者が本当に望んでいることなのか?果たして正しい「対応」なのだろうか?
残念ながらここではその答えを出すことは出来ない。個人の信条・宗派・思考によって対応が変わるためである。この問題に最適解は存在せず、同時に不正解もない。したがって、このことは当事者と十分に検討したうえで、安楽死を行うかどうかを決めていくべきである。
「死」は救いではない
誤解しないでほしいのが、「死」は救いではないということである。さぞ安楽死が唯一の救いのような扱いとなっているが、根本的な問題で言えば死んだところで解決はしない。安楽死はあくまで数ある脱出手段の1つである。生きていればいいことがあるとは言わないが、死にたいと思ったら死ぬのを少しだけ先延ばしにする。
先延ばしすると、時間が死を遠ざける。気付けば、「生きよう」とは思わなくても「死のう」とは徐々に思わなくなるものである。もっとも、そのきっかけは個人によって違い、少しのことでも死にたくなることは多い。気分の上下が激しい人なら尚更、頻繁に「死にたい」と考えるであろう。私も時々今の状況を垣間見て死にたくなるので、とりあえず死ぬのを先延ばしにしている。これが思いのほか効果がある。
ただし、難病によってほぼ動けない状態、治療法が全くないなどの、時間経過ではどうにもならない場合の解決手段としての「安楽死」は妥当である。おそらく「死」では当事者の救いにはならないが、「安楽死」という手段であれば、少なくとも当事者の救いになるだろう。
現在日本での安楽死が取り巻く問題は複雑であり、今後も議論が重ねられるだろう。いつかは安楽死が制度として認められる日も来るかもしれない。そのときにまた、安楽死を望む人も考えない人もまとめて、個々が真剣に向き合う必要がある。決して他人事とは言い切れないのが、安楽死である。
以上、安楽死についてのリンクス岐部の見解であった。それでは、次回の記事で会おう。
リンクス岐部(LINKS-KIBE) at 22:00 June 11th, 2020
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