この記事の概要を簡単まとめ!
- 人間とは実に面倒な生物である
- 「独りでは生きられない」は残念ながら正解であり、殆どで誰かと関わっている
- その過程で特定の人物と交流するようになる
- だが大半の人間関係は自然消滅しがちである
- 長く連絡しない・会わない人は自然消滅しやすい
- 例え「気が合う」同士でも思想の相違が決別の理由になる
- 友好的になるのは時間がかかり、絶縁になるのはほんの一瞬
- 逆にどういうタイプが長続きするのか
- もし「賞味期限切れ」であっても、どうせそんなものであったと割り切れ
人間とは面倒な生き物であることをつくづく思う。それと同時に、私自身、なぜ面倒な人間になっているのか、それを未だに考えている。人間であるから面倒だと思うのか、それとも時代や状態が悪いからそう思うのか。その答えは、人間として生きている限りわからない。もし人間以外の存在に私が成れたとき、人間を棄てて後悔するのか、それともしないのか。難しい話だ。
面倒といえば、人間同士の、所謂「人間関係」は非常に面倒なものである。人間は、自分のことですら理解することが難しいというのに、相手のこともある程度理解した上で、当たり障りのない関係を築き、平穏にやっていかなくてはならない。それは、自分が「嫌い」と感じる人でも原則分け隔てなく、である。みんななかよく、とは昭和の時代で終わりだ。
そんな中で特定の人物との人間関係を持つことがあるだろう。それは「友人」という2文字で表せるものであるが、友人を作るハードルはインターネットの存在によってかなり下がっている。しかしその分、簡単にその関係を切れることもあって、実質的には人間関係は希薄になりがちである。そんな中でも長持ちする人間関係は、貴重なものであろう。
しかし、私が近日中に経験したのが、割と長く続いていた、インターネット上の関係がばっさり切れてしまった人が数人いた。この経験から考えたのが、人間関係には繋がり方に依らず「賞味期限」が存在するのではないか、ということだ。タイトルからして既にマイナスな内容だが、だが人間関係について違和感を持っている人は未だに多い。したがって、自分へのメモ帳としても、今回はこのことについて考えていく。
ブンブンハロー現代特有の希薄な人間関係、どうもKIBEKINです。
「人間」という生物
人間とは実に面倒な生物である
人間という生物について熟考している人は、果たしてどれくらいいるだろうか。普通は考える必要はないので、殆どの人が考えずに過ごしていることだろう。それこそ、生きているうちに一切そのことを考えずに過ごす人も少なくない。それは往々にして親ガチャ成功者だったりする。通常、考えるのは社会学者、心理学者といった人間そのものが研究に関わってくる分野の人の場合か、人間嫌いくらいだ。私の場合は大学で社会学を少しかじっていたので前者であり、そして定期的に人間嫌いを発症するので後者だ。
人間のルーツを調べたりすることは面倒なのでしないが、古代から存在する人工的建造物や文化などを考えると、ずっと昔から人間というものは存在し、そして何らかの手段をもって「やりとり」をしていたということは、想像に難くない。その「やりとり」の方法は、言葉をはじめとして、身体で示すか絵を描き、あるいは絵よりも効率的な文字でしていたことであろう。もっとも、「書くもの」の概念が薄かったころは伝言ゲームのように聴いて記憶するくらいしか方法がなかったであろう。そう考えると昔は昔で面倒だったのかもしれない。
では今はどうかと言えば、昔とは違った点で面倒である。それは、昔は概念として存在しなかった「感情」「思想」といった、個々の人間の内面で持つものが定義されたり、以前よりも「誰かと」何かすることが多くなったためであろう。他にも様々な行為が法や制度としてルール化されているが、中には「そんなことまで明文化しなきゃわからないのか」というようなことまで制定されていたり、時代が進むにつれて何かと面倒さが明るみに出ている。これでは、スティンガー並みに面倒が嫌いになってくるであろう。実際、私がそうである。
「独りでは生きられない」は残念ながら正解であり、殆どで誰かと関わってくる
様々なところで言われていることであるが、人間は「独りでは生きられない」という。このフレーズ自体が歌の一部にも採用されるほど、有名かつ一般論として世間では知られていることである。この言葉については、私個人としては平和主義者の戯言のように考えていたが実際その通りであり、機械化の進む世界の流れに伴って人間の仕事の一部は機械に代行されるようになっても、完全には人間の代行とならず今でも多くの場面で人間の手で仕事やサービス提供がなされている。機械では任せることのできない分野である感情や感覚的なものほど、人間の手でしかやれないものがある。
仮に一人暮らしをしていて普通に生活しており、1日全く外に出ることがなく、インターネット上で誰かと連絡を取ることもなかったと考える。その場合でも電気・ガス・水道を使うことは確実で、その供給者(企業)とは間接的に関わっていることになる。契約を行わなければ通常、使用できないためだ。また一人暮らしの場合、殆どの場合でマンションやアパートの一室を借りて生活することになるので、管理人とは少なからず関わることになるほか、部屋の隣の住民や同階の住民とは、何かと関わる機会があるだろう。場合によっては同じ建物に住んでいる人とも関わる場合がある。主にクレームやルールの確認とかで。
そうでなく、普通に外に出たりインターネット(特にSNSなど)を使っている場合は、それこそ不特定多数の人間と、直接・間接問わず何かしら関わっているはずである。もっとも身近な例で言うなら、何か物かサービスを購入する時のキャッシャーは、殆どの場合で有人である。ただ現在は死のコロナウイルス情勢下であるのと、自動化や省略の流れが来ているため、レジの高性能化やスマホを使った新しい買い物システムの構築によって、人間が関係する部分を減らして効率化が図られている。しかし前述の通り完全には置き換えられないため、スキャン、レジ操作、金の受け渡しなどは店員(人間)を介して行われているのが一般的である。
その過程で特定の人物と交流するようになる
普通に生活しているなら、学校に行っているか社畜をしているかであり、殆どの人がそう生活している。あるいはインターネットで適当にネットサーフィンでもしながら、SNSで交流しているであろう。その際、特別に人間嫌いでない普通の人であれば、当たり障りのないように「他人」と接するはずだ。その他人が生理的に受け付けない、横暴で嫌な奴など、問題のある人物でなければの話だが。
その過程で、特定の人物と頻繁に交流することになることがあるはずだ。この場合、一般には「友達」または「友人」といったもので表せる関係になる。友人に至るきっかけはほんの些細なことであることが多く、たまたま近くにいた・最初に話しかけた人だった・趣味が同じだったなどがある。或いは、強制イベントの「グループ分け」を経由することも少なくない。ただしこの場合は仕方なくな部分があり、その場合で友人ができるのはまれだ。
その友人との連絡手段は、かつては個々の持つ電話番号またはメールアドレスしか方法がなかったが、SNSと連絡手段を兼ねた音声通信可能な無料アプリの登場で、現在はそれに代行される。登録時はフリーメールと適当なIDとパスワードの組み合わせで使用可能であることが多いので1)ただし、大手SNSは勿論のことフリーメールですら偽装や悪用防止から電話番号を要求することが多くなったため、もはやフリーメールを作るハードルが高くなりがちである。、作ること自体は楽だ。しかしサービスは乱立しているので、あらかじめどれを使うかを事前に話しておく必要があるだろう。
だが大半の人間関係は自然消滅しがちである
最初は色々な人と友人になることは多い。これは新しい学校または新学期、初めて特定のコミュニティに参加するなどの節目を迎えたときによく起きる。お互いに新しいことを始めることによる「未知の状態」の期待と恐怖が入り混じった結果、そのような人間関係が出来上がるものと考えられる。1年生の歌ではないが、100人とは言わずとも数十人はあながち間違ってはいないかもしれない。
しかし、振り返ってみてほしい。いずれの時期でもいい、最初の頃にできた「友人」、果たして今でも連絡をしていたり、共に遊んだりしているだろうか。おそらくは多くの人が、もう連絡を全く取っていないとか、連絡先から消してしまったとか、顔も名前も忘れた、という人が多いのではないだろうか。極端に考えれば、100人の友人が存在したとして、1年後には2~3人としか連絡を取っていない、ということは普通にあり得る話である。そもそも100人どころか1人もできないことが多かったが。
つまり、大半の人間関係は自然消滅しがちであるということだ。それは個々の進路・目標・仕事によって物理的距離が開いてしまうことによって、現実に会うことができず、忙しく連絡が取ることもできなかったというのであれば仕方ない。対してインターネットでは、物理的距離を無視して簡単に「知り合う」ことができるが、その分人間関係は希薄になりがちである。そしてインターネットは常に大量の人が出入りをしているわけで、さっきまでそこにいた人が、明日にはもういないということはあり得ない話ではないのだ。
そこで考えたのが、「人間関係の賞味期限」だ。人間関係にも賞味期限が存在し、それを過ぎてしまうことで今まで良好だった関係は簡単に崩壊し、消滅してしまうのではないか、ということだ。これは私の直近の経験に基づいた個人の感想に過ぎないのだが、最近はどうもインターネットを中心とする人間関係の一部が消滅して(あるいは完全に消滅して)いる。そこで、どういう状況になると賞味期限が切れて、人間関係は消滅してしまうのかを考える。
人間関係の賞味期限と消滅
人間関係の賞味期限は、普通に生活してれば考える必要のないことだ。だがあえて考えることで、人間関係を構築する際のヒントになるであろう。
賞味期限01:長く連絡しない・会わない人は自然消滅しやすい
このことは前項でも触れているが、長い間その人と何らかの手段で関わらなかった場合、自然消滅しやすい。ここの何らかの手段とは、直接会うことのある人はその通り直接会うことで、そうでない場合はツール経由で連絡を取ることだ。もっとも死のコロナウイルス情勢下なので、前者の手段は取りにくいので大抵はツールによって連絡する方法が選択される。
もちろん、話したいことや用事がなければ連絡するということはないので、仕事か家族か恋愛関係にあるとかでなければ毎日連絡するということはない。SNSも、実生活が忙しいと見ている余裕などない。或いは実生活で充実していれば、敢えて連絡を取ることも負の情報が蔓延しがちなSNSをすることもないであろう。そうして自分から離れていけば、連絡を取ることも交流することもなくなる。人間は、そこにいない他人のことは時間が経てばすぐに忘れることが多く、大抵1ヶ月も連絡を取らなかったら知らない間にその人のことは忘れてしまう。これは不要な情報と無意識に判定され、捨てられて記憶容量を確保する生理現象であるので、別に不思議な事ではない。
そもそも論であるが、連絡を取らない・交流しないということは、言葉は悪いがその人は自分にとって「どうでもいい存在」であるから、自然消滅しても何もおかしくない。したがって、現時点で連絡を取っていない人がいるなら、既に賞味期限切れになっている可能性が高い。もし長続きさせたいなら、「加工」を施してやるべきだ。それでも一時的な延命か、あるいは無駄な努力に終わる可能性が高いが。
賞味期限02:例え「気が合う」同士でも思想の相違が決別の理由になる
良好な人間関係、特に友人であれば、それは「気が合う」という言葉で表されることが多い。それは確かにそうで、お互いが同じ”ような”趣味や活動をしているのであれば尚更である。その様子を外から見れば「相棒」のような感じに見えるかもしれない。
しかしいくら「気が合う」とは言っても、結局は他人である。その人とは考えていることが微妙に異なることは普通だ。そのため、多少たりとも意見の相違が発生することがあるが、殆どの場合はお互いが譲歩することによって丸く収めることが可能になっている。だが、どうしても譲れないことがあって大騒動に発展することも少なくない。それでも時間の経過や仲介者の存在によって完全にはその人間関係が消滅せず、修復してまたいつものように活動・交流することであろう。
ただ、それができない場合がある。それは「思想」の相違だ。ここでの思想は、その人の趣味や活動の範囲外にあることについてである。例を挙げるなら、政治や社会現象・社会問題に対するスタンスがそれである。このあたりは多くの人の趣味や活動の範囲外であり、日本人にとってはかなりセンシティブな話題に分類される。政治や社会問題について話す時、高確率で敵対的な意見が発生しやすく、インターネット、特にSNSならそれを見ている周囲をも巻き込む騒動になるのは良くある話だ。
そしてそれは、「友人」の人間関係であっても起きる。政治思想がたった少し違うだけで対立的になり、最悪の場合はたったそれだけで決別することになる。往々にして、その後は「敵」になりがちだ。特に最近は一般国民の皮を被った上級國民が多数存在し、それらと思想的対立をすることが多い。どんなに「人」が良かったとしても思想が違うだけで「敵」になりやすいのは、ある意味でジャップ国内情勢の酷さを物語っているかのようである。
友好的になるのは時間がかかり、絶縁になるのはほんの一瞬
人間関係の恐ろしいところは、友好的になるのは非常に時間がかかるが、嫌いになったり絶縁するのはほんの一瞬の出来事でなってしまう、ということだ。前述の思想の違いによる影響はもちろんのこと、物を貸し借りしたが帰ってこない・借りパクされた、約束を不意にされた、恋愛における三角関係の発生など、ちょっとしたことから重大なことまで、原因とその事の大きさは様々だ。しかし受信強度は個人差があり、他の人がどうとも感じないことである人は怒ってしまうということがある。そういう意味でも人間はやはり面倒だ。
ただ、人間はどうしても一時の感情で動きがちなところがあり、その勢いでもって人間関係の解消をしてしまうということをする人はいる。かく言う私もその経験が何度もあり、1ヶ月ほど前にもそれを経験した。一時は後悔するが、過ぎてしまうとそんなことで関係が切れてしまうのなら私にとっては重要ではない人間関係だったと、そう考えるようにしている。結局「賞味期限切れ」だったということだ。
なお、その逆にあたる友好的な関係になるには、往々にして膨大な時間が必要である。絶縁に必要な時間を1秒とするなら、友好的になるにはその100万倍は必要になるだろう。しかしいくら友好的になっても絶縁の可能性は常にある。それを考えたとき、友人を作ることの時間対効率は非常に悪い物になってしまう。損得勘定だけで考えるのはナンセンスであるが、最近の出来事の所為かどうしてもそう考えざるを得なくなってしまう。制限思考というものかもしれない。
逆にどういうタイプが長続きするのか
マイナス要素を考えたのなら、その逆も考えるのがフェアというものである。つまりは長続きするタイプを考えるということだ。単純に考えれば今まで挙げたことの逆をすればいいのだが、実際のところはそう簡単に行くものではないだろう。面倒だが、細かく見ていく。
要素1:毎日接するわけではないが、定期的に話や活動をする
生きることはルーチンワークである。残念ながらこれは事実だ。なので生きるためにルーチンワークに従事しているわけだが、人間関係もまた同じことが言える。会話から反応に至るまで、それも一種のルーチンワークである。全く同じ状況を再現できるわけではないので毎回同じような振る舞いになるとは言えないが、感覚的には同じだと言ってもいいだろう。
人間とは贅沢な生き物で、毎日同じような繰り返しをしているとそのうち飽きてつまらなくなってくるという。ルーチンワークが好きな人はこれに当てはまらないが、そうでない人はつまらないと感じるであろう。ではどうするかといえば、行動をちょっと変えるくらいの変化が必要になるわけだ。それがもし生活に必ずしも必要でないというのであれば、毎日ではなく間隔をあけてやってもいいだろう。2・3日おきなどの周期的にやるのもいい。周期的にすれば習慣となり、飽きも来ないであろう。
これを人間関係に当てはめると、毎日接するわけではないが定期的に話をしたり遊んだりすることになる。もっともそのような人間関係、果たして友人と言えるのか怪しいが、毎日ではない分お互いに過干渉することもなく、話のネタも尽きることはないだろう。そう考えたとき、案外続くかもしれない。毎日がお祭りだと飽きるのと同じようなものだ。
要素2:最初の印象が「いまいち」な人ほど長く続く?
これは簡単に繋がれて簡単に関係を切ることができるインターネット(SNS)の話になる。誰か気になる相手をフォローし、大半の場合最初の挨拶をすることになる。が、フォローしたからと言って別に挨拶は必ずしなければならないわけではなく、そもそも「するべき」というルールは存在しない。法で定められているわけでもないので、そのあたりの判断は個人に委ねられる。
最近はフォローしたら、自分が怪しい人でない限り2)所謂GAFA部とか胡散臭い役職とかを明記しているような垢はアウト。これは何故か意識高い系の集合する顔本や人の言葉を介さないオワコンTwitterでよく見られる。はフォローを返される。その逆、誰かにフォローされたとき、相手が特別に怪しいのでないならフォローするだろう。そうして相互になるが、その際に特別にその人に対し報告することはない。そして特に意識することもなく、流し見することになるであろう。それで、その人が自分の領域の話題について発信したときに何らかの反応を相手に与えれば、その相手から何かしらの返答を貰えるであろう。
今まで何も会話したことがない人にいきなり反応したりリプライすると、一般にはあまり印象が良くないイメージだ。なので、最初の印象は「いまいち」というものになるであろう。ただ、私の個人的見解であるのだが、最初の印象が「いまいち」である人ほど、後で長く続くのではないだろうか。実際、最初にあまり話している人ではなかった人と今も関係がある。逆に衝撃的な出会い方をした方が、どうにも離れていっている気がしているのである。もっとも私個人の感想に過ぎないので、気のせいかもしれないが。
もし「賞味期限切れ」であっても、どうせそんなものであったと割り切れ
今回は人間関係の「賞味期限」について考えた。人間関係とはつくづく面倒なものであると思っていたが、こうして考えてみると面倒になる原因が存在した。もっとも私の考えのもとに編み出したものなので、それ以外の原因や条件が存在するであろう。もっとも、この手の話は内容がガバガバになるのであまりしたくないのだが。
この話を書いているときに思ったのは、人間関係には賞味期限があり、その賞味期限が切れてしまってその人間関係が消滅してしまったりしたのであれば、どうせそんなものであったと割り切り、それよりも今残っている人間関係の方を重視すべきである、と。正直これ以上は内容がガバガバになるので、私としては以上である。
以上、人間関係の「賞味期限」は存在する~構築と消滅の繰り返し~であった。それでは、次回の記事で会おう。ン、バァーイ!
KIBEKIN at 14:10 Sept. 30th, 2021
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