この記事の概要を簡単まとめ!
- 2008年、名前も出したくない男が提唱した「無敵の人」という概念
- ネットスラング故に一般人には縁のない言葉であった
- 近年の殺人・殺人未遂事件の発生によって表舞台に出される
- 無敵の人自体を事実によって裁くことは容易である
- だがその行動に至るまでの理由は必ず存在するはず
- 事件は忌むべき、しかし社会にも目を向けるべき
- 事件への対策を立てるとともに社会の改善が求められる
- 「社会を改善すること」は容易ではないが、根本的解決には必須
幸せの定義は個人に依存する。そのため一般的解釈による幸せに当てはまらない人は多々存在する。しかしジャップは厄介なことに思考や思想の一般化という名の統一的圧力が得意な、所詮は「アジアの一国家」に過ぎないことを思わせる。東側に位置する国家が見栄を張って資本主義にするから失敗するように思う。東側なら社会主義と、相場が決まっているのである。民族性の問題もあると個人的に思っている。
人を恨むことは、労力の割に効果が薄く、時間と努力を無駄にする行為である。しかしインターネットが一般化したことが影響しているのか、インターネット上で成功者や自分より幸せな人の情報を不可抗力に視認してしまい、比較して自分が下にいるという現実に耐えかねて攻撃してしまう人は未だに存在する。それでただ現実に打ちひしがれたり脱却を目指そうと行動することは問題ない。厄介なのは、それを無関係な他人にぶつけることである。巻き込まれた人としては、いい迷惑である。
その究極系、実際に誰かに危害を加えることも近年になって増えてきている。それも死亡事件に至り、1人ではなく複数人が死亡するレベルのものも多くなっている。事件を起こした理由は死刑になりたい、どうでもよくなったなどの非常に個人的であり迷惑すぎることで実行することが多い。しかし事件を起こすということは、起こすまでに至る要因が重なった結果事件を起こした、と考える。何か要因がなければ事件を起こすことはまずないからだ。今回は「無敵の人」の実際の事案を見て、その概要と原因を探り、どうすれば「無敵の人」を無くすことができるかを考えていく。
ひとっ飛びできる目次
ブンブンハロー失うものが何もない人、どうもKIBEKINです。
「無敵の人」という言葉
「無敵の人」という言葉が誕生した2008年
「無敵の人」という言葉がある。この言葉は何も知らない人が聞けばゲームのことであると勘違いするかもしれない。だがこの言葉はネットスラングの1つであり、特に軽蔑の意味合いが込められているものになっている。この言葉は、私が心の底から嫌っている、名前も出したくないある男が提唱したものだ。その男によれば、「社会的に失うものが何も無いために犯罪を起こすことに何の躊躇もない人」という意味であると定義している。
この言葉を提唱したのは2008年のことである。インターネットはようやく普及し始めてきた頃である。この2008年に起きた事件で最も衝撃を与えたのが6月8日の「秋葉原通り魔事件」であり、歩行者天国にトラックで突っ込んだ挙句トラックから降りた後に刃物のようなもので斬りつけ、7人死亡、警部補ら10人が負傷するという大事件である。この事件の発生によって一時期、歩行者天国は中止される事態にも至っている。皮肉にも同年に「土浦連続殺傷事件」が発生しており、これもまた犯行の参考となったという1)参照:2008年の日本 – Wikipedia。1つの事件は新たな事件を呼ぶ。
2008年というと私は当時中学生だったはずである。しかし何をしていたかについては全く憶えていない。ただその頃には既に悪名高い最悪の匿名掲示板である、名前も出したくない1と3の間chは一般化し、醜悪と憎悪の塊しかないそこに入れ込む悲しき人間が大量に存在している時期でもある。それは現在になっても一向に変わることのない事実であり、未だに時間と労力とパケットの無駄をしている人間が多いというのが事実である。そんなところに入れ込んだところで、何の得にもならないということが分かっていないようである。
ネットスラング故に一般人には縁のない言葉であった
「無敵の人」が提唱されたとしても、正常な人は1と3の間chとは全く無関係な生活を送っており、当然インターネットが陰湿なものとなる諸悪の根源となる男の存在も知らない。それを使わずとも生きていけるうえ、負の情報しか蔓延していない「そこ」を使って失うものの方が多いのは想像に難くないことだ。寧ろ知ってしまうことの方が人生にとって損失を与えると、そうしか思えないのである。
その私も1と3の間chに対して絶対的な拒否反応があり、何があったとしても見ることは絶対にない。したがって今日までもこれからも、低俗な「ゴミ溜め」を使うことはあり得ないことだ。このことは1と3の間chが存在することによって、そこで何らかの被害を受けた人なら尚更そう感じるはずである。過去に全く1と3の間chをも全く知らず、普通に活動していただけで何故か名指しで「口撃」されたことがある。ただし一切抗争などはなく名前も知られていないのでダメージは全くなかったが、この経験から1と3の間chを使っている人間に対するイメージは最悪なものになった。インターネットの表層で最も危険な存在である。
その経験と行動方針、そしてその頃はSNSですら全くやっていなかったため、ネットスラングを目にしたり耳にする機会などなかったに等しい。インターネットそのものについてもWi-FiはおろかPCすら保有していなかったために、ニュースサイトも一般的なブログ及び企業が運営するコラム・記事型サイトも見る機会は全くなかった。そしてその言葉は結局殆ど表舞台に出てくることがなく、私がSNSやインターネットをやるようになってからも見る機会はなかった。「一般人」であった私もまた、そのネットスラングは縁がなく過ごしていた。ある意味では、平和だったということだ。
近年の殺人・殺人未遂事件の発生によって表舞台に出される
多くにとって縁のなかったであろうこの言葉は、近年の殺人・殺人未遂事件の発生によって表舞台に出されることとなった。2013年の「黒子のバスケ脅迫事件」における被疑者の渡邊博史が法廷で主張したことが発端となって、この言葉は多くの人に知られることとなる。この事件自体は威力業務妨害に終わり死傷者は出ていなかったが、実際に危害が発生しかねない危険物2)気化すると致死量を上回る硫化水素を発生される硫黄を作者の母校である上智大学四谷キャンパスに、作者を中傷する文章と共に置いた。を使用しているところから、殺意はあったであろうが実行時の恐怖を考えて、結局できなかったものと考えられる。したがって、この事件については然程のインパクトはなかったであろう。
しかしそれを上回る、実際に死傷者が出る事件がここ5年で発生し、これらも「無敵の人」に繋がる事件として後に取り上げられることにもなる。系列順では2018年6月9日にのぞみ256号車内で鉈を振り回し1人死亡2人負傷の「2018年東海道新幹線車内殺傷事件」、2019年1月1日に原宿・竹下通りで車で暴走し8人を重軽傷させた「原宿・竹下通り暴走事件」(仮題)、2019年5月28日に登戸で私立カリタス小学校のスクールバスを待っていた小学生の児童や保護者を襲い、2人死亡18人負傷し被疑者は現場で自殺した「川崎市登戸通り魔事件」、2021年8月6日に小田急線快速特急内で刃物とサラダ油で10人負傷した密室の危険「小田急線刺傷事件」、そして最新の事件が2021年10月31日、京王線特急内で小田急線を参考に犯行に及び17人負傷(現時点で死亡者なし?)させた「京王線特急密室刺傷事件」(仮題)が相次いで発生したことで、今になって「無敵の人」は最高にホットな話題となった。国内情勢は悪化の一途を辿るジャップで、さらに悪化を加速させることが起こっているというのはいよいよ世紀末すら感じるものだ。
皮肉か偶然か、10月31日は壮大な税金の無駄遣いである衆議院議員総選挙の投票日であり、この選挙は人殺し団体自民党と新弱者いじめ政党日本維新の会による独裁政権が維持される形となり、多くの人に「代議制民主主義の失敗」を味合わせる結果となった。その結果が影響しているのか否か定かではないが、「弱者を無視する」現状の社会情勢に絶望して無気力ないし無価値を感じ、自暴自棄になった末の無差別殺人(未遂)ということなのであろう。自分の力では全く変えられない事象に対して絶望し、死を望むというのは別に不思議な事ではないのである。そうして自分より幸せであろうとされる人間を巻き込んで最後に自分も死ぬ、というのはある意味で一貫した行動に思える。
事件を起こした無敵の人を裁くのは簡単だが
さて、殺人や傷害については刑法によって明記され、一般に知られている犯罪である。殺人については第二十六章、傷害については第二十七章にその内容が詳細に書かれている。そのため、実際に誰かに危害を加えたのであればこれらの刑法によって合理的に罰せられ、裁かれることとなる。刑法に違反すれば処罰されるというのは実に分かりやすい。そしてそれは原則として上級國民以外の全てに適用されるので、違反した人物が無敵の人であってもなくても例外なしと考えていい。
そして事件を起こした当人は、死刑か無期懲役か単純な懲役刑かわからないが何らかの刑事罰を受けることは確定する。犯罪者はどうであれ何らかの刑事罰を受けることは当然の報いであり、物損程度で済んでいるならまだしも他者に損害をもたらした場合はその損害のレベルに値するか、それ以上の刑事罰を望むのが「感情として普通」である。極論殺人であるなら死刑でいいという考えもある。しかしジャップの司法は無能であり、被害者感情を無視して加害者を過剰に擁護するという頭も文化もおかしい部分が存在するので、残念ながら現在の司法は信用できないものである。ハンムラビ法典の方が信用できる。
事実によってその事実に対する代償を払わせるのはわかりやすいものであるが、だが裁判をして刑事罰をして終わり、で本当にいいのかという疑問が生じている。無敵の人が犯行に走るのは、通常の犯罪者となる人の犯行とは違う理由が存在するはずだ。単純な怨恨や人間関係のいざこざによって犯行に及ぶことの理由はわかりやすく次なる発生を防ぎやすいが、無敵の人の場合、犯行に至る原因を追究していかなければ、次なる無敵の人による犯行を防ぐことができないと、そう考えたためである。それは往々にして個人の努力や誰かの助けを得て解決できるものではない。そこで無敵の人が犯行に至る原因を考え、その原因はどうやれば取り除くことができるか。それによって無敵の人は本当にいなくなるのか。今回はそれを考えていくこととする。
無敵の人が発生する原因と解決方法
原因究明前段階:被疑者のバックグラウンドを見る
早速原因を探りたいところであるが、その原因を知るにはまずこれまでの事件の被疑者のバックグラウンドについて、公開されている限りの情報から収集し、事実の発見ないし推測を行っていく。なお秋葉原通り魔事件の被疑者は、自身の環境とその当時の社会情勢は犯行の原因とは無関係と供述している3)参照:秋葉原通り魔事件#犯人 – Wikipedia 実名で本を出版したため、本名が公開されている。ため、この項では除外する。
2013年の「黒子のバスケ脅迫事件」はただの脅迫で終わっていること、2018年6月9日の「2018年東海道新幹線車内殺傷事件」は詳細が語られていないため、これらからは原因を究明できない。2019年1月1日の「原宿・竹下通り暴走事件」は被疑者の犯行動機としては死刑制度反対の抗議のために無差別殺傷を行ったとされる。それと同時弁護側の主張から、父親のアルコール依存症による家庭環境の悪化と被疑者の被害妄想の悪化が語られた。ここから「病気」(おそらく精神疾患の類)ということも言われている。社会が原因だとするなら、死刑制度が発端であると分かる4)参照:原宿暴走テロ 21歳男子を無差別殺人に向かわせた深刻な被害妄想 | FRIDAYデジタル この時点では判決は出ていない。。死刑制度は自力ではどうにもならないものであることは確実だが、直接的な犯行理由として重度の被害妄想が挙げられるため、社会が原因とする説を推すことは難しいであろう。
2019年5月28日の「川崎市登戸通り魔事件」は被疑者死亡に加えて聞き込みや家宅捜索によって得られた情報が非常に限定的であり、インターネット環境がなかったこともあって犯行動機が全く不明である。明確に判明しているのは被疑者が引きこもりであったということで、それは10年近くに及ぶという。その前にはいくつかの就業経験があるようだが、それぞれがどれくらいの期間でどのような仕事をしていたかについて詳細が語られていないので、残念ながら個人の動機も社会の原因も探ることはできなかった。真相が闇に葬られることほど、悩ましいことはない5)参照:川崎市登戸通り魔事件#加害者 – Wikipedia 現実からもインターネットからも隔離されていたがために、不特定多数の外部にも犯行理由なども書かれることはなかったという珍しい例と言える。。
2021年8月6日の「小田急線刺傷事件」と2021年10月31日「京王線特急密室刺傷事件」は事件が電車内で発生したこと、京王線は小田急線を参考にしたことからほぼ同列に扱う。小田急線刺傷事件は犯行動機は女性を敵視していて、所謂ミソジニーから犯行に及んだとされる。そのため標的は主に女性であるが男性も被害を受けているため事実上無差別刺傷になる。しかし判明している情報はこれだけであるので社会が原因にあるかどうかが不明である。しかし女性敵視になったのは、不特定多数の女性から何らかの形で蔑まれた結果そうなったと推測できる。性別を無視して考えると、誰からも心配されることなく寧ろストレス解消のためのサンドバッグにされた、そう言えるであろう。それが特に女性から受けた結果がそれであったということになる6)参照1:小田急線刺傷事件 – Wikipedia7)参照2:小田急線刺傷事件を「フェミサイド」と結論づけるのが極めて危険な理由 事件の「背景」を覆い隠してしまう | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)。
それでは京王線特急密室刺傷事件の場合はどうか。現時点で判明している犯行動機は友人関係のトラブルと死刑になるための実行であることが取り調べから判明している。考えとしては2人以上殺せば死刑になると思ったということで、しかし明確なバックグラウンドはまだ不明である。それはこれからの報告に期待するとして、ここからできる推測は一言でまとめれば「人生のレールから外れた」ことが伺える。事件を起こした場所は「レールの上」であるが。被疑者の年齢が24歳で犯行当時住所不定・無職であること、実行までの2ヶ月は神戸、名古屋に1ヶ月ずつ滞在しながら上京していったこと、逮捕時の所持金が¥2,000だったことから、その時点では失うものが殆どなかったと考えられる。友人関係のトラブルもあったため、おそらくは家族関係もあまり良くはなかったと推測できる8)参照:10月中旬にオイルを大量購入 逮捕時の所持金は2千円に満たず(朝日新聞) – goo ニュース。ただし勝手に推測しているだけであるので、事実とは異なる可能性があることはご了承いただきたい。
事実と推測から:個人的動機か社会が原因かを考える
これまでの事件を調査して得た情報のうち明確に語られているものについて、事実と推測から個人的動機か社会が原因かを考える。原宿・竹下通り暴走事件の場合は個人的動機に家庭環境の悪化と被疑者の被害妄想の悪化、社会に死刑制度がある。しかし前述の通り死刑制度が直接的な理由、つまり犯行の原因とはなりにくくむしろ被害妄想がトリガーだと考えないと辻褄が合わない。したがってこれは個人的動機による犯行と考える。
小田急線刺傷事件は個人的動機がミソジニーによるものだが、性別を考えない場合の動機は不特定多数の他人から蔑まれたということである。さらに誰も助けてはくれなかった、友人もいない、独力では脱出不可能な厳しい状況に置かれ、救済制度を利用しようにも門前払いを受けた、さらには無能ジャップ政府の積極的弱者切り捨ての差別と傲慢が現在進行形で継続中。自分で動いたが何も変えることができなかったのであれば、それは確実に「社会」に原因があると言える。あるいは生活困窮者に対する無能ジャップ政府の政策が全く的外れなら、それも「社会」が原因と言える。これは京王線特急密室刺傷事件でも同じことが言えるであろう。
事件は忌むべき、しかし社会にも目を向けるべき
ここで勘違いしてほしくないのが、決して無敵の人の犯罪を擁護しているわけではないということだ。犯罪は犯罪であり、違反したのであればそれは正しく刑事罰を受けさせなければならない。したがって発生した事件とその被疑者は忌むべきで、一般的な考えと全く同じだ。だがこれまで何度も似たような事件が起きていて、それは減ることを知らず増える一方に見える。
もしそれがただの妄想でなく事実であるのなら、もはや単純に事件が発生してそれに対処するだけでは解決しないことになる。そうなれば目を向けるべきは社会である。全てを社会のせいにするのは流石に都合が良すぎるが、しかし社会にも目を向けなければ無敵の人による犯罪を未然に防ぐことができないということである。しかし人間とはどうしても目の前に起きた出来事ばかりを注視し、その裏にある事情を読み取ることを怠るため、社会に疑問を向ける人は殆どいない。その意味では、途絶えずに発生している無敵の人による犯罪の原因は社会にもあるということを示していて、それを広い範囲に問題提起しているようにも思えるのである。
事件への対策を立てるとともに社会の改善が求められる
これまでに起きた無敵の人による事件現場や被害者の被害状況を見てみると、実際に「暴走」が起きた際には全く逃げ場がないかそれに対応できる人が全くその場にいないために被害が広がった、というのが多い。そもそも無敵の人は実行時は何らかの武装をしているのが普通で、その圧倒的な力で強引にその場にいた無関係な人を傷つけるというのが殆どの事件で共通している。そして一般人は時代錯誤の無能な法律によって武装を禁止されているので、抵抗することすら不可能である。唯一対応できる存在となる警察官は銃を撃つことの条件が厳しくその後の始末書は面倒で、その前に事件現場に到着する時間も考えれば市民を守ることには不十分と言わざるを得ない。警察が存在していても、もはや無敵の人を相手にするには力不足、そんなようにも思えてしまう。唯一、無敵の人は自身の主張のために犯行予告を行うことが多いため、それを根拠に警戒強化などはできても、いざ何も起きなかったときはあらゆる無駄が発生してしまい、それはそれでたちが悪い。
結局対策を立てるにしても対処療法として警備強化や防犯カメラの設置程度に留まってしまうわけで、これまでの防犯対策と全く同じことしかできないわけである。もちろん無意味ではないが犯罪抑止にはなっていないと感じる。その証拠は先にも言った通り事件が発生しているためである。それに加えて無敵の人特有の自暴自棄な状態、「どうせ死ぬから関係ない」ということも影響する。逆に人々の記憶に残ることや形としての記録に残ることを望んでいることが考えられる。一部では電車でも手荷物検査を実施すべきという意見はあるが、それにかかる費用と手間、法整備を考えると非現実的なものである。もっともサリン事件を起こされているのに実施していないのも不思議だが。この部分は専門家の分析と提案に任せるものとする。
社会の改善は、無敵の人が陥りがちであろう社会情勢を改善することが目的となる。もっとも現在の社会情勢は「常に過去最悪」と言い表せて、無敵の人以外の誰の目にも酷い社会情勢であることは間違いない。具体例を挙げるなら、ベーシックインカムを導入すべきという声がある。そのほか失敗を許容・再出発(再挑戦)できる社会の形成、格差問題の解決、行き過ぎた自己責任の撤廃などが考えられており、或いは死刑にするくらいなら安楽死の導入をすべき、という意見も存在する。ただし社会問題については探せば探すだけ存在するので、それを全て解決するのは正直限界がある。それを考慮した上で優先すべき問題を1つずつ解決していければ、無敵の人は少しずつ減っていくのではないだろうか。同時にそれは一般国民の生活安定にもつながるはずだ。
「社会を改善すること」は容易ではないが、根本的解決には必須
無敵の人、そしてその無敵の人が起こす殺人・傷害とそれ以外の他人に何らかの危害を加える事件。常に何かの事件が発生する中で際立っているそれは、被害規模や時代によらず何度も起きて、しかし社会の影響や被疑者のバックグラウンドを考えることをないがしろにしていたようにも感じる。その結果として無敵の人による事件は繰り返し起きてしまい、その度に無関係な人が巻き込まれるという結果になっている。
巻き込まれた人はどうやっても「運が悪かった」と片付けられてしまいがちだ。巻き込まれた人当人やその関係者は憎むべき被疑者を憎んでも、その被疑者は失うものがないどころか反省せず、自分の行為を正しいとも思ってしまうことだろう。つまりやられ損だ。そこには悔やんでも悔やみきれない、何とも言えず怒りをぶつける先もない事態が起き、最悪そこから負の連鎖が始まってしまう可能性もあり得る。
それを防ぐには、事前の防犯対策も必要だが、一番の方法は社会の改善である。そもそも無敵の人が発生しなければ事件は起こり得なかったと考えることができるので、無敵の人を無くすために社会を改善する努力をすればいいわけだ。だが本編でも書いた通り、社会を改善することは到底1人で出来ることではない。その上代議制民主主義の失敗を証明したジャップにおいて、少数の意見・考えはフィルタにかけられ捨てられてしまうものでしかない。その現実の目の前にしても、無敵の人の根本的解決には必須である。
無敵の人による事件を起こしたくないなら、事件を起こさないための努力をする、それが私達に課せられた「義務」ではないだろうか。
以上、検証、無敵の人:無敵になる原因と対策の熟考、であった。それでは、次回の記事で会おう。ン、バァーイ!
KIBEKIN at 07:00 Nov. 3th, 2021
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脚注
本文へ1 | 参照:2008年の日本 – Wikipedia |
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本文へ2 | 気化すると致死量を上回る硫化水素を発生される硫黄を作者の母校である上智大学四谷キャンパスに、作者を中傷する文章と共に置いた。 |
本文へ3 | 参照:秋葉原通り魔事件#犯人 – Wikipedia 実名で本を出版したため、本名が公開されている。 |
本文へ4 | 参照:原宿暴走テロ 21歳男子を無差別殺人に向かわせた深刻な被害妄想 | FRIDAYデジタル この時点では判決は出ていない。 |
本文へ5 | 参照:川崎市登戸通り魔事件#加害者 – Wikipedia 現実からもインターネットからも隔離されていたがために、不特定多数の外部にも犯行理由なども書かれることはなかったという珍しい例と言える。 |
本文へ6 | 参照1:小田急線刺傷事件 – Wikipedia |
本文へ7 | 参照2:小田急線刺傷事件を「フェミサイド」と結論づけるのが極めて危険な理由 事件の「背景」を覆い隠してしまう | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) |
本文へ8 | 参照:10月中旬にオイルを大量購入 逮捕時の所持金は2千円に満たず(朝日新聞) – goo ニュース |