この記事の概要を簡単まとめ!
- 人間は醜い存在であることは旧リンクス岐部時代に提起した
- プレイスタイル的に「アンチ」が発生することはわかりきったことである
- 「敵ではない」存在にすら裏切られたことがあり、それが何度もある
- ある意味慣れたが流石に何度もやられるのは気分が悪いので対策する
- 人間の口はヘリウムや水素以上に軽いことは再認識しなければならない
- 内容よりも行動や態度、つまり非言語情報に答えが現れ、それを読み取るのが重要
- 最初から期待せず、深入りしないように動くことも対処方法の1つ
- ビジネスライクは普段の人間関係でも使える
- 自分すらも疑うことは時に必要なことである
- 人間関係で病む前に「性悪説」を前提に対策を立てろ
人間が、日に日に「嫌なもの」になっているのを感じる。それは誰のせいだろうか。あるいは人間がそもそも汚いものだからだろうか。もし私が人間ではない別の存在であったとしたら、私はきっと人間を許すことはなかったかもしれない。死滅させて浄化したいと、そう考えるはずだ。だが死滅させるには膨大な時間が必要で、人間が対策を立てるまでに全員を死滅させることができる感染力や拡大力が必要になる。やはり難しいであろう。
私にはアンチが多く、ファンは少ない。活動スタイルからそれはすぐわかることである。そして私は「敵ではない人間」にすぐ裏切られる。これを書くまでに至る1年の間にそれが何度も起きた。何度も経験したせいなのか、周りが全て敵に見えて、悪意を持って接近してくる。そう思うようになってしまった。全員がそうでないとは思いたくとも思えない。だが「コップ一杯の水に垂らされた一滴の致死毒」論が頭を巡り、どうやってもそこから抜け出せなくなってしまっている。
正直、もう裏切られるのには疲れた。何度も経験しているそれをまた経験してしまうと、きっと頭がおかしくなる。だが人と接しないわけにはいかないのが現実である。ならば、最初から入り込んだり自分から接近することはせず、常に一定の距離を保っていればいい。つまりはビジネスライクを普段の生活にも適用することである。このやり方については一定の反発が必ずあるが、そんなことは一切無視して、そうすることの重要性を説いていくこととする。
ひとっ飛びできる目次
人間の本質は「性悪説」だ
人間という生き物
旧リンクス岐部時代の提唱
かつて私はリンクス岐部と名乗っていた。この名前にはもはや未練などないが、その昔に1つの記事を書いたことがある。それが人間は醜く、信用せずに生きるべきだということ。その記事を書いたのが2019年11月29日のことで、その頃はちょうど最後の社畜に失敗して、世界は独裁者まみれだった頃である。色々な意味で世界に絶望し、精神的にも最悪な状態な中で書いたこれは、考えとしては極端すぎるものになるが、だが過去の私が書いたにしてはまとまっているようにも感じた。
人間というものは醜いものである、そして簡単に裏切るものである。そして裏切りが招くものについてもそこで書いている。裏切った人間はのうのうと生きていて、裏切られた側は様々なものを失う。全部が全部そうではないにしろ、大半がそのような事態に陥るのではないだろうかというのが当時の主張である。それに対して復讐するとかというのは海外ドラマではありそうな話になるが、実際失うようになればそうなっても不思議ではないであろう。
その時の対策として挙げているのが、人を信用しないということである。この信用しない範囲は他人はもちろん、自分すらも信用しないとしていたのである。他人に対しては常に距離を置き、その際に大事なものやマイナス情報を一切明け渡すことはしないで動くというものである。自分に対しては自分のあらゆること、記事では能力、行動、考え、現在の状態について疑えとしていた。他人に対してはともかく、自分に対して信用しないとはあまり考えたことがないはずであろう。だが自分を信用しないことによって、自分の能力を過信せずに行動できるようになり、例えば副業をすることや資格勉強、自分のための勉強をするといったことに繋がる。
世間一般的にはどうにも物事を性善説で考える平和ボケしたジャップが多いために、このことを提唱すると否定する馬鹿がいる。今まで裏切られた経験がない「恵まれた」人のようにも思えるが、当時の私としては「個人の意思」という部分を強調し、人間を信用しないことについては善でも悪でもないとしていた。あらゆることを全て「個人の意思」と片付けている所は少々危うさがあるような気もするが、だが他人の意思に干渉する人間でまともなのは見たことがないので、その意味では合っているとも言える。
私のプレイスタイル:アンチは必ず発生する
周囲と比較すれば、私のプレイスタイルはかなり尖っているものになるであろう。私は基本的に指摘したいことははっきり言うタイプであるので、これに関してはジャップの卑しい国民性とは相性が悪い。ジャップは殆どが嘘と忖度と美徳を良しとする、私が知る限り北朝鮮の金一族よりも人間として卑しい存在が多い。そして出る杭は打たれるという、海外ドラマでも取り上げられるほど不名誉なことわざが示しているように、横並びから少しでもずれた者は全員で叩くという陰湿さを持っている。もっともこれはジャップに限った話ではないが、しかしジャップの場合はその傾向が非常に強いため、それの犠牲になった人は数知れない。同族嫌悪もいいところである。
それが私の場合にも存在する。だが殆どの場合は顔を見せることはない。直接的に攻撃してくる人間は私が知る限りでは4と6の間chの陰湿な奴らくらいであり、それ以外は人知れず毒を吐いているという感じである。おそらく調べればそういう情報はいくらでも出てくるであろう、しかし自分から精神を削るような愚かな行為はしないと決めているので、敢えて調べる必要もない。したがって目に見える範囲ではアンチが発生していることを確認することはできていない。
これがSNSになると実はわかりやすくなる。その中で最もわかりやすい指標はフォロワー数である。正直私としてはあまりその数字は気にしておらず、増やすような努力は面倒であまりしていないのだが、それゆえに数字変動が非常にわかりやすい状態である。SNSでも基本的にはっきり言うような形になっているので、その発言は時として誰かにとって棘になることも少なくない。そしてたまたまそれを目にしたことで私を嫌い、フォロワー数が1つ減っている、ということはよくあることだ。よくありすぎること故に、既に慣れてしまっていて今更いい顔するのも面倒に思っているほどである。それを気にしてスタイルを変えてしまうのであれば、ある意味でブログクリエイターに向いていない。
問題:「敵ではない」存在に裏切られること
とはいえいつものことであるそれは、特別問題なことではない。それより深刻なことが、「敵ではない」存在に裏切られることだ。この場合の定義としては、アンチではなく、何らかの手段によって交流がある人とする。大抵の場合は特に当たり障りのない感じでいることが多いので、別に仲がいいとか悪いとかは存在しない。普通に話ができる程度なら、少なくとも敵ではないと断定できる。とはいえ私の活動スタイル的には自分から交流することはあまりなく、あるとしてもマスド由来かゆかコネ関係が多い。
人間とは悪い生き物である。特にジャップは、表面でしか人を判断しないことが多い。そのため少ない情報だけで様々な決断を行いがちである。もっともこれは私にも当てはまることはあるが。これは前項のことも当てはまるのだが、やはり人間とは本質が変わらないため、全体の1%に満たないであろう部分を見て、それまで人畜無害のように接していたとしても裏切るのである。つまりは最初からまともに交流する気などなかったということである。特にSNS上でこの傾向が強くみられるものである。
「敵ではない」のレベルの違いによるダメージ
ところで裏切られる時に、その「敵ではない」存在がどれくらいの関係だったかによって自分が受けるダメージも異なってくるものになる。最もダメージが少ないのがそもそも空気だった場合であり、それであれば居ても居なくても関係なかったのだからいつもと変わらないという感覚になるはずだ。その逆は、最もわかりやすい例では結婚している、あるいは婚約前提であるとかの場合で、この場合の裏切りとは大抵「浮気」で表すことができる。それはドラマで見るようなものからばれないようにやっているパターンまで様々だが、これは往々にして泥沼化することが殆どで、裁判沙汰か、最悪の場合は刑事事件に発展することも少なくないことである。
これは極端な場合を挙げたが、多くの人はその中間にあたる、それなりに交流があって一緒に何かしたことがあるという場合ではないだろうか。この時は割とお互いに自分のことを話しているものと考えられる。その状態で裏切られた場合、少なくともいい気はしないはずだ。それか、しばらくは放心状態になるのではないだろうか。もちろん人によるが、マイナス効果が発生することは間違いない。旧リンクス岐部時代に提唱したその通りになるように感じている。
何度も経験した裏切り、悪い意味で慣れた
この記事を書いているのには当然理由がある。直近でまた、裏切られたからだ。そして私にはその理由が全く分からない。それなりに交流があって色々あった関係でもあるから、当初は困惑と怒りが同時に発生し、時間が経つと落胆にも変わった。そうして時間が経つにつれて、前にも似たようなことがあり、今回のこれもまた同じようなもので、それが何回目かは分からないが「また同じような経験をした」と気付いたのである。どういうわけかわからないが、私は何故か突然裏切られる傾向にあるらしい。そもそもこんなことで傾向が掴めること自体に危機を覚えるべきだが。
人間とは怖いもので、何度も同じ経験をすると慣れる。そして裏切られるパターンもなんとなくだが似ているような気がしたのである。大体同じことが起きたということは、その後の流れも大体同じようなことが起きることが予測される。そうすると自ずとどう動いたらいいかが分かるのである。つまり、あまりにも同じすぎて慣れてしまったということでもある。悪い意味であり、そもそも裏切られること自体が起きるべきではないのだが、どうしてもそういうことが起きてしまうのだから仕方ないと言うべきである。
流石に何度もやられるのは気分が悪いので対策を立てる
では慣れているからと言ってそれが何度も起きていいかと言われれば、それは違う。何度も起きるのは精神的に悪く、そもそも望んでいないことである。裏切られることが専門の職業か役者であるならまだしも、ただのブログクリエイターであるのでそれで嫌な思いはこれ以上したくないというもの。とはいえ現状維持ではまた起きてもおかしくないので、これを機に対策を立てることが必要になるであろう。
前提として、私は心理学者ではない。大学で履修する一般教養程度の心理学は持ち得ているが、おそらくこれは使い物にはならない。それより重要になるのは、学問的な難易度で捉えるのではなく、日常生活レベルの言葉と行動から対策を立てることで、難しい要素を含まない方が考えやすくやりやすいはずである。よって次項から、裏切られることへの対策とその具体的方法について考察していくこととする。
裏切りへの対策を立てる
前提条件:人間の口は軽い
まず前提条件として、人間の口は軽いということを考える必要がある。このとき、口頭であるか文面であるかは問わない。もっともな話、日常生活においていちいち正式な書面で発言内容を記録するかと言われればそれは無理な話であるが、それゆえに何でも言うことができてしまうのはある。結果としてそれが無責任な発言に繋がりやすいわけだが、口頭であれば録音という方法で記録することはできる。また、現在は配信系が多く、アーカイブ機能を同時に有することは当たり前で、少しPCに詳しいのであれば、例え保存機能がなくても動画そのものとして保存できることも珍しくない。そのために発言には必然的に気を付ける人が多いという。それでも「軽い」ことはよくある話だが。
とはいえ軽いことによって足元をすくわれた人は多く、それは有名人と無能な政治家において顕著である。ニュースタブを開けばいつも無能な政治家の軽はずみの発言で炎上している記事を見ることができ、有名人においても炎上していることはたまに見受けられる。ある意味いつものことであるが、反面教師資料としては最適である。内容が少しずつ異なった状態で必ず何かしらの問題を起こすわけで、その度に記事になるので、その内容を読んでいけば何に気を付けるべきかということが分かるようになっているのである。それはともかく、前提として人間の口は軽いということはここで再認識する。
読み取るべきは内容より非言語情報
過去に社畜などで就活していた人なら、メラビアンの法則は知っているはずだ。心理学の話であり詳しい情報は論文を読んでもらうとして、これで言われているのが言語情報7%・聴覚情報38%・視覚情報55%の比率であるという実験結果である1)参照:メラビアンの法則 – Wikipedia。もっともジャップ共は数字だけしか見ていないうえに余計な情報を付け足して就職世界線にカオスを巻き散らすという愚行をしてくれたがそれはともかく、この情報を応用することによって交流する際にどこを見るべきかということが分かる。
残念ながらSNSの場合は言語情報しか得られないのでこれを利用することは難しいが、現在は音声を利用できるサービスが多数存在する。これの場合は主に聴覚情報を利用できる。大抵の場合はカメラはONにしないためで、そもそも一億総監視・叩き合い社会に顔など出すわけがなく、自分から弱点を晒すのはただの愚か者だ。また音質は回線とマイクの性能に依存するため、場合により正確な声を聴くことは難しい。しかし大抵の声は届くので判定するにあたって問題はない。
前提にそれぞれの言葉の意味を知っている必要があるが、言葉と声のトーンや抑揚が不一致の場合、違和感を覚えるはずである。例えば怒っているような感じで「ありがとう」と言われて、それは本当にありがとうと思っているのかと疑問に思うはずだ。これは単に1つの例に過ぎないものの、ウケ狙いの動画でもなければ変な発音で話すことはまずないはずで、その小さな違和感に気付くことができると見抜きやすくなる。
また、顔や身体が見えない分、会話中に絶対に存在するであろう微妙な間やため息などのしぐさ、完全な排除が難しいノイズ(環境音や物音)にも注意を払うことによっても小さな違和感に気付けるであろう。勘繰りすぎといえばそれまでだが、嘘をついているかどうかを見るにはこれくらいしないと難しいのも現状である。
最初から期待せず、深入りしないという心構え
そもそも「裏切られた」と感じるのは、その人に対して1%でも期待していることによって起きることである。ならば、最初から期待しないというのも有効な心構えとなる。これは人間関係にうまくいかない人が「人間関係 難しい」とかの検索ワードによって出てくるページに書かれていることが多い。あるいは人間不信、人間嫌いと書いたときにもこれは出てきやすいものである。
この考えは旧リンクス岐部時代に提唱した「他人を信用しない」というものと似ているが、期待しないことによってその人へ依存しなくなる。これによってその人が自分に対して「期待外れ」なことをしたとしても失望したりすることはないはずで、これの最大級である裏切り行為に対しても、ある意味で大目に見れて、感情を乱されることもないであろう。同時に期待しないことによって、逆に自分に対してメリットがある行動を相手がしたとすればそれはラッキーな要素として捉えることができ、感情としてはプラスになる。この考え方は日常生活でも気分が良くなるものと言えそうなので、普段から導入してもよさそうである。
そして期待しないと同時に不用意に深入りしないという心構えも重要になる。持論だが、人に深入りするほど無意識に依存したり期待したりしてしまうと考えており、前述の期待しない心構えに影響を及ぼす可能性があるためだ。もっとも、深入りすると自分の生活とその人に生活にも支障が出ることが殆どのため、その相手と結婚したいと思うくらいの気持ちでなければ、そもそも深入りする理由はない。所詮、自分は自分で他人は他人である。
ビジネスライクは普段の人間関係でも使える
そうであっても、何かしら交流しなければお話にならないというのが悲惨な現実である。そのため、どうしても人と接しなければならない場合、ビジネスライクを適用するのも面白い。本来は職場の人間関係の在り方の1つを示す言葉だが、その考え方はどこでも利用できるはずである。そしてこのことは、既に心理学を学んだ人も同じ考えを持っていることが分かった。つまり、考えとしては間違っていないということである。
その人は例で接客を挙げている。ページ中では営業の場合で書いているが、最もイメージしやすいのはスーパーやコンビニの店員である。私も経験があるのでわかるが、例えどんな客が相手でも原則顔色1つ変えずに応対する。丁寧かどうかはさておき、その相手の態度がいかに酷かったとしても、流れ作業で次々と捌いていき業務を遂行する。そもそも店員は業務としてそれを行っていて、必要最低限のコミュニケーションが取れて、客も店員がちゃんと業務していれば文句は言わない。まして、二度以上会うかどうかわからない相手にいちいち感情を込めることはしないはずだ。つまり、一律な対応こそ店員が求められることとなる。なお、常連の場合はこの関係は変わってくるものとなる。
それを普段の人間関係にも適用すると、最初は前述の心構えを含めて基本的に当たり障りのないような、世間話をする程度の関係でいて、ある程度「大丈夫そうだ」と思ったら接する態度を変えていく、という形である。もちろん態度は変えても心構えは変えないように接する。こうすることによって、初期の段階で何かあっても全く気にせず済むうえに、後々にそれなりに進んだ関係になったときに裏切られたとしても、ある程度は割り切って次に進むことができるようになる。結局のところ、人間関係とは持ちつ持たれつの関係で、自分にとって利益をもたらすのであれば考えてもいいが、そうでないならそこまで丁寧でなくてもよい、そう言うことができるはずだ。
自分すらも疑うことは時に必要なことである
最終的には自分すらも疑うことが必要になるであろう。旧リンクス岐部時代の提唱を繰り返す形となるが、それの拡張版で、自分の決断を疑うということにそれを利用する。そもそもであるが、裏切られたと感じるのは愚かにもその裏切り者を少しでも信じていたことによる失望や憤りに起因するものである。それが起きないようするもう1つの方法として、自分の決断を疑い、安易に人を信じないように熟考する時間を設けて、客観的視点で自分を分析するようにする。その上で、信じるまで行かないにしても、少しは関わってもいい、またはビジネスライクに徹するということを選択するといい。
自分を客観的に見る、これは意識していてもなかなか難しいことである。だが少しずつ続けていくと、完璧ではないにしろ客観的に見ることができるようにはなると思われる。これが出来てくるようになれば、おそらくはそういう事態に遭遇することも少なくなると思われる。もっともそこまでしなければいけない現代事情がおかしいのであるが、それは紛れもなく「変えられない事実」である。変えられない事実にあれこれ悩むよりも自分で出来る対策を行って、少しでもその被害を消せればいいというものではないだろうか。
人間関係で病む前に「性悪説」を前提に対策を立てろ
私は実際のところ、人間関係の構築は苦手である。それは自分から話しに行くタイプではないことと、過去にそのことで何度も嫌なことを経験したからである。あまりにも悲惨なもので話したくもないが、そのことでどうしても人間というものを信じられなくなり、人間そのものに嫌悪を感じるようになった。これが世間一般で言う「人間嫌い」とか「人間不信」である。
時期にして大体20年以上も前の話であるので、そういうものは時間が経てば忘れるというのが一般的である。だが人間の記憶というものは厄介で、自分の意識下において忘れたとしても、覚醒状態ではアクセスできない「脳版隠し領域」にその情報が残っていることが多く、これが当時と似たような状況に置かれたり近い経験をするとフラッシュバックが起き、嫌でも思い出してしまって色々支障が出るということがある。おそらくは私もこれに近いことが起き、それまで一応は平気だった「人間嫌い」とか「人間不信」がまた発生してしまったようである。
だが忘れていた重要なことも思い出した。人間とはそもそも「性悪説」であるということ。だからいつ裏切られてもおかしくなく、たまたま今回そうなるのが早かっただけだと思うようにした。そうすると自分の中で納得できて、そしてこのことを記事にすると妙に落ち着いた。そもそも人間関係とはあまりにも儚く、あまりにも脆い。弱すぎるナイロン糸の1本で繋がれているようなそれに依存することの危険さを今一度認識することができた。もし人間関係で病んでいるのなら、その前に「性悪説」を前提に対策を立てるようにすれば、少なくとも私のように荒れることはないだろう。
あともう1つ。いくら私の書いていることが納得できるからと言って、私を信用するな。信用されても裏切らない保証はない。私もまた、「悪い人間」だからだ。
以上、人間嫌いの独白:人間は根本的に「裏切るもの」だから、であった。人間とは性悪説だ、それを忘れずに自分を保って生きろ。
KIBEKIN at 00:00 Jun. 4th, 2023
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脚注
本文へ1 | 参照:メラビアンの法則 – Wikipedia |
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