まとめとかないです。所謂雑記分類。「死」に関して書いているので精神的にきつい状況では見ないこと。
ひとっ飛びできる目次
死にたくて、死ねなくて
「死にたい」という気持ち
死にたいという気持ちが常に頭のどこかに渦巻いている。普通に生活していて、特に何もない状況で瞬間的に死にたくなることが多くあり、それは今何をやっているかということに関係なく発生する。当然死にたくなると普段の生活のパフォーマンスに影響が出るわけで、何かやるべきことがあるタイミングでそうなったときは、その気持ちを何とか抑えつけながらタスクをこなすようにしている。
そんな時に、普通の人間(と人間の姿をした蟲)は果たして死にたいという気持ちを持っているのかというのを気になった。個人的偏見を全開にして語れば、所謂「普通」の人間とサイコパスと成金と馬鹿は死にたいと思うことはないだろう。普通は普通という時点で成功者であり、サイコパスは人ではなく、成金は金で全てが解決し、馬鹿はそもそも死について考えないからだ。
逆に同じように死にたい気持ちを持っている人は果たしてどれくらい存在し、どのように生きているのだろうか。おそらくインターネット上にはそこまでの情報量はないだろう。そのような情報は大抵表には出てこないためだ。最も探すあてになるのは当事者会などで、これは人間的な安全性を考慮したものでもある。危険なエリアまで探せばそのような声を見つけることこそできるものの、心の無い声の方が大きいため推奨しない。特にジャップにおいては弱気を挫き、強きを助ける傾向が強いためである。
金と時間で解決しない事象
大抵のことは時間と金が解決することであるのだが、それは地盤が整っている場合に限る。それ以外のことは根本的原因に迫り、それを排除しない限りは一生続くものになる。その根本的原因も、解決可能なものと解決不可能なものがある。自分の手の届く範囲で物理的にアクセス可能なものは殆どが解決できるが、人が関わるものについては解決できないことがある。また、解決のためには大移動を伴うことや資金を多く消費するようなことがある場合は、これも簡単には解決不可能な分類になる。
さて、一口に死にたいと言ったところでその原因は多種多様である。瞬間的な出来事によるものなら簡単に解決できることは多いであろう。例えば恋愛系のものは人が関わるものであるが、結局のところこれは時間が解決するものであることが多い。ただし金を大きく盗られたとかであればそれは何かしらのアクションを起こした方がいい。もっとも、時間は取られるもので取り返しのつかないものだが。それ以外でも、死にたい原因がはっきりしているものが多いので、それに対して金か時間をかければ解決できるはずだ。
だが死にたいことで悩んで色々探し回っている人は、原因がはっきりしない「なんとなく死にたい」という部分が強いはずだ。私もこれである。正確には原因だと思われることはあるが、その原因となるものが既に巻き戻せないほど過去のことである、あるいはトラウマからといった部分もあるだろう。また、ある時に明確な理由もなく死にたいと思うようになって、それがずっと続いているというようなこともある。その場合は子供の頃、小~中学生の頃に経験している人が多い。
そしてこれは金と時間で解決できないことが多い。コストとして支払っても「それっぽいこと」ができるだけで、根本的原因の解決には至らないことも殆どである。他には所謂「精神科」への通院という選択肢があるが、それは結局のところ「診断」を貰うためだけのもので、そのためには長く時間と金をかけなければならないものである。これも解決に至るものではなく、想定される診断名も「双極性障害」といったものになると思われる。これらは以前から治療するものではなくコントロールするものと言われており、その意味でも金と時間で解決しない事象と言える。
死ねない理由
しょっちゅう死にたいと思うならそれはもうメンヘラか何かと言われかねないくらいの状態だが、だが実際には死ねない。発言と行動が矛盾しているが、これは死にたいと思う人の殆どが経験していることである。気持ちの上では確かに死にたいと思っているのだが、だが知識や一般論として「死」についてある程度認識しているため、実際に死んだらその後がどうなるのかが怖くて実行できないために気持ちだけ先行するということ。あるいは実際に死のうとして、苦しいことが嫌である、失敗した場合の後始末や後遺症について考えて、または実際にその情報を目にしたことでそれも怖く感じてできないでいるということが多いであろう。
大抵はこのような理由で死にたくても死ねないという状態になる。これだけ切り取れば確かにメンヘラだとかかまってほしいだけだと言われかねないが、本当にそうである場合を除き、前述の「なんとなく死にたい」をはじめとする不確定要素によって気持ちの揺らぎが生じていれば、そのせいであると結論付けることができる。
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他には「なんとなく死にたい」以外で死ねない理由が偶然にもできてしまった場合がある。それは事の大小・身近なことから社会全体に影響することまで様々だ。私の場合は、やるべきことが発生してしまった、気になる海外ドラマが登場した、まだうまいものを全部食べていない、cleaちゃんが成長している姿を見届けるといったことである。後者ほど完全に個人的なもので、このあたりはポジティブな死ねない理由であるが、少なくとも後ろ向き、消極的選択での死ねない理由よりはマシである。
死にたい気持ちと共存する
共存のための前提
いくら悩んでも解決できないのなら共存するしかない、というのが答えになるなら、実際に共存するための戦略を立てていく方が早い。だがその前に、共存のための前提を考える必要がある。
まず、「死にたい」という気持ちは場所と自分の感情の状態を問わず、無意識下で発生するものであるということを意識する。つまり何をしていても、どんな気持ちであってもそれは突然前触れもなく襲ってくるものであり、それを予測や予知することはほぼ不可能である。なので敢えて「死にたい」という気持ちに対して常に身構えるということはしない。その状態では常に気を張っている必要があり、その分他の作業が身に入らなくなる。これは明らかに効率が悪い。
また、大多数の人間は「死にたい」と思ったことが殆どないわけで、したがって基本的にはこの気持ちは自分の内側にのみしまっておくべきである。その感情を伝えたとしても適当にあしらわれるのは目に見えているからだ。明かすとしても最低限の人数、同じ経験をしている人以外には伝えないことである。これは自分の身を守る上でも重要である。
何もない状況で死にたいと思ったとき
まず想定される状況で最も分かりやすい、何もない状況で死にたいと思ったときである。この場合は1人でいて、やるべきことが終わり、特に何もしていないまたはインターネットで適当に何かしている状態であることが多いのではないだろうか。またこの場合の空間としては、家などで個人の部屋、風呂やベッドの上といった確実に1人になれる場所が多いはずだ。
1人で安全な空間であるという状態を考慮すれば、まずは否定せずにその気持ちを受け入れて、並行して簡単なもので遊んだり何も考えないで笑えるものを見て、自分を正常な思考ができる状態に引き戻すようにする。死にたい状態では往々にして正常な思考ができるような状態ではないため、難しいことを考えないでできることをした方が安全である。そういう時にYouTubeやらニコニコ動画やらが役に立つというものなので、文明の利器とはよくできている。逆に配信などは注視していないといけない要素も多いため、この場合にはあまり向いていない。
これはいわば「気を紛らわす」行動であるが、そもそも様々なものから気を紛らせて人生、自然死するまで生きているわけである。これも結局のところその1つであるので、別に何もおかしくない。ある意味「いつも通り過ごす」で良いだろう。ただし、頭を使うような難しい話はやめておく方がいい。
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周りに人がいる状況で死にたいと思ったとき
しかし大抵の場合の「死にたい」気持ちは状況を選んでくれないことの方が多い。つまり誰かが周囲に存在する状況で、死にたいと突然思ってしまうことは絶対にあり得ることだ。この時周りは死にたい気持ちを理解してもらえないという前提で動くとすれば、まず何か作業や仕事をしているのであればそれに集中することである。人間とは愚かにも単純なもので、何かに集中しているときは他のことについて考えなくなることが多い。その状態が長く続けば、次第にその気持ちも落ち着いて安定するはずだ。
次に想定される、遊んでいる時やゆっくりしているなどで特に忙しくない状況で死にたくなった場合は、手元にスマートフォン等のすぐに何か遊べる道具がある場合はそれを利用する、人がいる場合はとりあえず他愛のない話をする、なんか集中しているようなふりをして頭の中で整理するなどを行うといい。あるいは人がいると不都合であり、その場から退避可能であれば一旦離れて1人になるのもいいだろう。時間制限がある場合はずっとできるわけではないが、少なくとも「何もしないより改善する」ことは確実である。
自分の気持ちを否定しないこと
もちろん、上記以外のシチュエーションにおいて「死にたい」と思うことはあるが、おおよそ想定されるのは上記の場合である。それ以外の場合はそれぞれに合わせて変えていけばいいだけのことである。
ところでここで取った行動は全て「抑え込む」という要素を含まないものである。それは本題である「共存」を否定することになるから、と言ってしまえばそれまでなのだが。実際のところ、「死にたい」という突然湧き上がってきたマイナスの要素もそれは自分の気持ちであり、それを否定することは精神面に悪い影響を与えると考えたからである。誰かの気持ちに難癖をつける他人は大抵ろくでもない屑であると言われるように、自分で自分の気持ちを否定してしまえば「死にたいと考える自分」が嫌いになっていき、そこから悪循環が始まってしまう。そうなってしまえば鬱病などの原因にもなり得る。
自分を信じられるのは自分だけ、とはどこかの誰かの台詞であるが、死にたいと思うときは大抵自己嫌悪のようなものもあるだろう。だがそうだとしても、自己否定だけはやめておくべきだ。本当は死にたくないのであればの話である。
死にたい気持ちもまた自分の正直な気持ちである
死にたいという気持ちは、通常は限定的状況でのみ発生するものである。だが一部の人は、ある特定の大きな出来事によってかそもそもの生まれつきで、常に死にたいと思う、あるいは普通の人よりも頻繁にそう思うようなことがある。私もその1人である。
理由や過去のこと、現在の状況などについてはこのシリーズの第1回分を参照してもらうとして、それらの事情で私は死にたいと思うことが普通よりも多く、精神的に平常であるときでも突然死にたくなる時がある。多くにとっては死にたい気持ちは厄介なものであると捉えているが、その湧き出たものは自分の正直な気持ちである。それを否定してしまうことは自分を否定することと同じであると考えている。その上、何をどうやったところで根本的原因の解消はほぼ不可能と見ていて、そうなれば死にたい気持ちは今後も不定期かつ突発的に発生すると分かる。
なら、否定せずに共存する方にシフトした方が疲れなくなる。もっとも、前記事で書いているように私は消極的選択の上での生きるをしているので、共存しなければならないというべきであるが。だが心と脳の片隅には、死んだところで解決しないとは十分わかっている。
それでも、ただ何もせずにいるよりはマシである。
KIBEKIN at 00:00 Mar. 1st, 2024
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