【不変な運命と修正の努力】「親ガチャ」その言葉を両面から考える

この記事の概要を簡単まとめ!

  • テレビで使われるようになっていきなり広がった「親ガチャ」
  • 現在のソシャゲ乱発時代に生まれたネットスラングの1つ
  • 昔からある「親は子を選べない」をかなり皮肉に捉えたものなのか?
  • 「親ガチャ」というなら、URは「一般的・普通」が揃うとき?
  • 環境や両親が”UR”であっても、それを生かすのは結局自分自身
  • “C”, 所謂「はずれ」から”UR”になる人も存在する
  • しかし現実は甘くない、弱者にも優しくない、「親ガチャ」も一理ある
  • 結局格差問題に行き着く、最適解はこれの是正か?

自分の将来について、度々熟考する。同時に過去の行動も振り返る。だが過去のことは、「今」の少し前のことについて考えるのが主であり、遠い過ぎた日々のことを考えるということは少ない。既に過ぎてしまったときのことを、今更取り戻したりやり直すということは不可能である。反省材料となることにはなるが、だとすれば直近の過去をデブリーフィングした方がいいというもの。重要なのはそこから先にどう繋げていくか。といっても、先のことを考えすぎては解決しないが。

さて、非常に手軽な洗脳装置として、インターネット世代の人からは嫌われているテレビであるが、先日どこかの情報番組とは名ばかりなワイドショーにおいて「親ガチャ」という言葉が全国に放送され、主にオワコンSNSの神Twitterで話題となっている。その影響は陰にあたるFediverse上でも、表立って触れられることはなかったが数人が話題にするくらいには「センシティブな言葉」だったようだ。事実、この言葉に対し否定的反応も観測できる。

そこで今回は私KIBEKINが、そのセンシティブな話題にメスを入れて、「親ガチャ」について私なりの分析と考えをここで提示していく。メディアの表舞台で特にスポットライトを浴びる立ち位置にいる、成功者の「綺麗に濾過された意見」とは違った、不純物も私情も混じったような「汚いが生の意見」をお送りすることになるであろう。だがその方が、「きれいごと」がない分、余計なことを考えずに純粋に自分の意見を伝えることができるはずだ。

ブンブンハロー生まれてくる子供たちとその両親、どうもKIBEKINです。

「親ガチャ」という言葉

「親ガチャ」の言葉の意味

親ガチャ、という言葉がある。しかしこれは最近できた言葉であり、昭和の時代には絶対になかった言葉である。まずは言葉の定義について、Weblio辞書から引用する。

親ガチャ

読み方:おやガチャ

子どもの立場から「親は自分では選べない」「どういう境遇生まれるかは全くの運任せ」と述べる表現ソーシャルゲームありがちキャラクター入手方法いわゆるガチャ)になぞらえ言い方。親ガチャとは逆に、親の立場から「どんな子が生まれてくるかは任意選択できない状況表現する言い方を、「子ガチャ」と表現する場合がある。子ガチャの方が親ガチャよりもソーシャルゲームガチャに近い構図といえる

最近の乱発されるソシャゲの殆どに採用されている、メインの強キャラ入手手段である「ガチャ」と、子供の立場から見た「親を選べない」「環境とかは運任せ」という部分になぞらえて、この言葉が生まれたということである。ゲームと現実で言葉が混同されがちな現代特有の、皮肉も混じった言い回しであることがここからわかる。



親ガチャという言葉が多くの人に知れ渡った理由は後述するが、親ガチャという言葉自体は知れ渡る少し前から誕生し、使われていたようである。それによれば、2011年には明確な定義もされていない状態で造語として存在していたようである。2017年には一部の人に使われはじめ、その後は年々使用者が増えていったようだ。ただしソース元は私が嫌いな日テレとTBSの間の朝日テレビと同じ数字を持つ、これもまた私が嫌いなアングラ系まとめサイトなので、それが事実かどうかを検証する術はなく、信頼性に乏しい。あくまでもそういう話がある、という程度だ。

ただ、2017年頃から増えてきたというのが事実であるなら、その頃から家庭環境、ひいてはオワコン国家ジャップ全体の格差は広がりつつあったことが推測できる。その頃はまだ日本史で最悪の独裁者・安倍晋三の時代だったわけで、最悪の状況を毎秒更新しているような状態だったわけだ。リーマンショックから悪化の一途を辿り、改善の可能性もなく、一般市民の力では変えられないような事態を目の当たりにして、それによって心が荒んでいれば、そう思う可能性もあり得るものになる。

手軽な洗脳装置であるテレビで取り上げられ、一気に広まる

しかし主な使用者は今も未来も絶望しかない時代を生きている若者であり、使用場所も表層のディープウェブ(=日テレとTBSの間の朝日テレビと同じ数字のところ)が中心である。オワコンと差別の温床であるTwitterでさえ、その言葉をあまり見ることはなかった。そのままであれば、殆どの人が知らない言葉として終わっていたはずである。

その沈黙は9月16日、情報系とは名ばかりな日本テレビ系情報ワイドショー番組「スッキリ」で取り上げられたことを機に、破られることになった。もっとも私は地上波というくだらない電波の無駄遣いをしているテレビを全く観ないため、どのような内容だったかについては知らないものである。ただし放送直後から反響が大きかったようで、SNSで速攻で広まり、それに応じて多くのネットニュースでも取り上げられた。その時はみちょぱが出ていてそれについてコメントをしたらしいが、世俗の著名人の発言については私は興味がなく、どうでもいい話だ。

正直、従来型オールドメディアもインターネットも、安易に情報操作が可能なので情報リソースとしては全く信用できないため、常に疑いの目で見ているか、あるいはそもそも見ていない。なのでこのことについては最初は全く知らなかった話だ。しかしこの話が私のいるFedibird(マストドン)にも流れてきたため、間接的にその事実を知ることになったのである。

昔からある「親は子を選べない」をかなり皮肉に捉えたものなのか?

親ガチャの類義語に昔からある言葉として、「親は子を選べない」がある。これも親ガチャと同じ、子供の視点から親を見たときの考え方である。しかしこの言葉には肯定的意味が存在するらしく、北海道出身の癖に浦和レッズが好きとかいう裏切り者加藤浩次は次のように述べていた。

『子供は親を選べないという言葉がある。子供は親を選べないという言葉の意味のなかには、親はだからこそ子供に愛情を注いで育てるという意味も含まれる』

「子供は親を選べない」について、加藤浩次 (スッキリ内での発言)1)参照:「親ガチャ」話題で「子ガチャ」にも注目「絶対に許さん」など厳しい声 – ライブドアニュース この記事の3段落目にある。

親は子を選べないという言葉自体、そんなに聞くものではないのでその意味について詳しく考えたことなどないが、どうやらそういう意見であるらしい。とはいえそれはただの一個人の意見であり思考であるので、聞き流す程度でいいだろう。正直、この手の言葉を明確に定義しようとすると宗教戦争レベルに発展してしまう可能性が高い。

ただこの言葉と「親ガチャ」を子供の視点からという前提のもとで比較したとき、「親は子を選べない」はまだ肯定的であり、捉え方や今後の(子供の)行動次第で修正可能であることを含み、「親ガチャ」はもはや自分の力ではどうにもならないため外力に頼るか、或いは外力に頼ることをせず、ただ変化または終焉が起こるのを待つ姿勢を表しているかのようだ。後者については、「学習性無力感」によって抵抗することすら諦めた結果そうなったとも推測できる。このように考えると、親ガチャは「親は子を選べない」をかなり皮肉に捉えたものである、と考えても不自然ではなくなるであろう。

親ガチャに対する一般の様々な意見

さて、親ガチャという言葉を聞いて、一般人は果たしてどんなを示しているのだろうか。1つ1つを細かく見ることはできないので、大多数の意見をざっと見てまとめてみると、その言葉に肯定的な意見は少なく、どちらかといえば否定的意見が目立つ。しかし同時に中立的立場をとり、その言葉の裏に存在する問題について注目する人もまたいる。もっとも、言葉の背景について考える人というのは全く少ないので、言葉の肯定ないし否定だけする人が多く、その言葉が発生する根本的問題については触れない人が多いというもの。それだと無駄に「親ガチャ」という言葉が誕生し、あるいは独り歩きするだけとなり、状況は悪化するだけに過ぎない。



親ガチャという言葉を使用している人は基本的にインターネット上でのみ見られるもので、その一部は人物詳細が分からないように情報を非表示にしていることが殆どである。一部は情報が判明していることはあるが、それによればある程度の「普通」の、昔の言葉で言うなら「中流階級」に属していて、その上で現状や人生が上手くいっていない人が使うものであるという分析もされている。確かに、あまりいい言葉ではないが、中流階級より下である場合にはそもそも親ガチャとかを気にするどころの状況ではないだろうし、それより上の上級國民であれば世俗の情報を仕入れることが少ないため、その言葉を知らずに過ごすことが十分あり得る。それで、何かの拍子にその情報を得たとして、果たして使うこともあり得ないであろう。

親ガチャという言葉がそのように扱われるため、その言葉そのものの意味と、ガチャと言うからにはランクが存在し、さらにはその言葉が生まれる社会的背景も存在するはずだ。したがって、親ガチャというこの言葉、肯定的・否定的の両面から考えていくことにする。

親ガチャを両面から考える

親ガチャの結果をゲームと同じように考える

親ガチャというからには、ゲームでするガチャと同じようにランクが存在するはずだ。そのランクについては、有志がネットで上がっていた情報をまとめているので、それを引用する2)参照:親ガチャとは?意味やランクの基準、当たりやハズレが気になる! あくまでインターネットであちこちに散乱する情報を1つにまとめたものであるが、見やすくはある。

親ガチャのランクと点数
親ガチャのランクと点数、及びその算出方法。これらがインターネットで言われていたランクの算出方法であるようだ。

このまとめられたランクの算出方法は、インターネット上に散らばる断片的な情報から作られたものである。それを1つにまとめるにしても、元々の情報は個人から出される不確かな、そして絶対的基準のない中で個人が自由に位置づけしたものであるので、このランク付け方法が果たして信頼できるかどうかと言われると、難しい話である。これも結局のところ「個人の感想」が含まれるためだ。

しかしこれなら、親ガチャのランクを簡易であるが示すことができる。この表によれば、親の最終学歴・夫婦仲・職業または年収・過去に何があったかなどを要素としている。このとき、学歴と夫婦仲およびその他の条件で決定、親の職業で決定、要素を点数化しその点数で決定する、3パターンで判定できるようになっている。3パターンでそれぞれ見ていくとランクが高いのか低いのかはっきりしなくなるので、あくまでも目安にしかならないが。

当然というべきか、ランクが高いのは高学歴であり、高収入であることが真っ先に出てくる。あるいは非常に高い役職に就いているか、親が(中堅ないし大企業の)社長だったり上級國民である場合もランクが高いとみなされ、逆に学歴がなく職もなく喧嘩ばかりで虐待や浮気などがあった、あるいは離婚した、片親であるという場合には低ランク、或いはそもそも判定不可となる。点数方式の場合はマイナス要素につき加点する方式で、こっちもこっちで細かいところで加点対象であるため、そうそう高ランクにはならないようだ。URの条件、極端すぎはしないだろうか。

個人的感想:現代なら「一般的・普通」が揃うときがUR?

ここで挙げられている親ガチャのランクの条件で、URレベルのものは0.1%にも満たないであろう。高所得者であっても子供がいないことは稀ではないため、そもそもそこに生まれる子供がいないと考えれば不思議ではない。したがって上記からURの条件を除外し、もっと現実的なパターンで考えてみる。

現実的なパターンで考える場合、まず条件から「ほぼ不可能」なものを除外することだ。つまり上級國民や超高学歴、一流企業の重役、有名人であることは、もはや努力だけでは叶わないものがあるので、これらは考えない。その上で私は以下のように考えた。

  • 一般的な学歴:大卒、最低限は短大以上。専門学校の場合は就業先による。
  • 就業タイプ:正社員が絶対。ただし共働きであり、父親の給与が多い場合、母親は必ずしも正社員でなくてもよい
  • 年収:専業主婦である場合は600万以上、共働き世帯の場合は合計でもよい。
  • 仕事:ホワイトカラーが原則だが、給与や待遇を考えた場合、必ずしもそうはならない。ブルーカラーでも十分である。
  • 役職:部下を数人持っているくらいの役職かそれ以上。ただしこれはホワイトカラーの場合であり、ブルーカラーの場合この限りではない。
  • 夫婦仲:円満とはいかなくてもせめて普通に過ごせているくらいは必要。多少の喧嘩などは許容範囲であるが、虐待等の子供への暴力は原則として認められない。
  • 子供への待遇:過剰に金をかける必要はないが、せめて小遣いくらいはあげた方がいい。部屋に関してはお好みで。塾ははっきり言って要らない

上記が現実的な場合のURの基準である。と言ったところで私が考えたものなので、これも結局明確な根拠を持たない「個人の感想」でしかない。ただし、割と現実にあり得るような設定を重視して考えると、「普通こそUR」という感じがするのである。



そんな中、一部の人からは「普通のハードルが高すぎる」ということが言われている。普通の基準が高いことは前々から指摘されていたことであるが、時代が進んでも求められることは変わっていないようだ。もしくは、人間の側が退化しているということもあるが、親ガチャとして考えたとき、ここに挙げたことが「一般的・普通」であり、子供が未来をまっとうに生きられるための前提条件になるのであろう。そうなると殆どの家庭で前提条件を満たせない気がするので、少子化に繋がるのも納得いくことかもしれない。

親ガチャへの否定1:結局「自分次第」である

どんなに高性能・高級な”物”を持っていたとしても、使わなければ意味がない。所謂「宝の持ち腐れ」である。これは”物”に限らず、人でも環境でも条件でも同じことが言える。つまりは親ガチャに成功したとしても、それをどう使うかによって、いい方向にも悪い方向にも転ぶということを意味する。

つまり、親ガチャのランクが上位であったとしても、自分の行動や思考が、これから先の人生を左右することになる。親ガチャに成功しても、未来が約束されているわけではないのだ。もっと言えば、自身は何の努力もせずに全てを親任せにしていれば、もはや自分では何もできない腑抜けの出来上がりだ。それを考えたとき、決して親ガチャが「成功」だったからと言って驕ってはいけないのである。

ちなみに、よくドラマやアニメ・漫画でありがちな、「親の束縛がきつすぎて家を飛び出した」とかいう展開は、おそらく現実には殆どありえない話である。が、私が知っているところでは、過去にあらびき団にほぼレギュラー出演していたある芸人が、両親が厳格な人で勤め先もお堅い職業であったようで、その反動で芸人になったという話もあったので、0.1%の確率でそういうことはあるかもしれない。

親ガチャへの否定02:”C”から”UR”になる人もいる

ガチャにおけるレア度”C”=Commonは、所謂「はずれ」だ。ゲームによっては”N”=Normalと表現されることもあるが、ランク分けしやすさの関係から”C”で統一する。ガチャの中でも最もランクが低く、殆どの場合で見向きもされないものである。ランク付けとしては、とりあえず”R”=Rareを基準(親ガチャとしては可もなく不可もない)として、”UC”=Uncommonをちょっと酷い、”C”を最大に酷いとすれば、”C”はもはや救いようのないくらい悲惨なものとなる。ゲームでは最も排出量が多いのだが、現実における”C”の排出量は少なめである。それでも存在するのだから世も末だが。

究極にマイナスからのスタートとも言える”C”は、そもそもスタートラインに立てない状態であるのだから、当然出遅れたり、或いは追い付くことができずに人生や競争からリタイアすることもある。その結果が不登校や引きこもり、非行・不良や中卒就業といった形に現れる。これが、自ら望んだ道であるというならまだしも、他に頼れる存在もなく、消極的選択でなったというのなら、救済処置はあってもいいと思うが。

そんな親ガチャ”C”の人のうち、宝くじをたった1枚買って6億円が当たる、非常に低い確率で最高レベルの”UR”に自分が成ることがある。このパターンでよくあるのが辛い過去を持った芸人がお笑いで大ブレイクした、ただの一般人だったが世界がひっくり返るような発明をしてノーベル賞を貰うといった、一発逆転劇のようなものが多い。これは、それまでの地道な、それこそ親ガチャランクが普通以上だった人よりも多大な努力を行い、それが報われた結果として起こることが多い。その時には大衆の前で泣いていいことである。

ただ、そんな都合のいい「ハッピーエンド」は通常起こり得ないことであるので、この辺はあくまでもただの参考でしかない。ただ、少なくとも最悪な状況から脱することは一応可能ではあるので、自分に限界が来るまではひたすらに戦ってみるのも一興だ。

親ガチャへの肯定:現実は甘くない、弱者にも優しくない現代

ここまでは親ガチャを否定してきたが、私は同時に親ガチャという言葉を肯定的にも捉えている。というのも、先に書いたことと少し重なるが、現実は逆転勝ちできるほど甘くない。特に現代特有の傾向として、多様性を謳いながら弱者をとことん切り捨てる社会であるため、親ガチャに「失敗」すれば人並みに生きることは叶わないという、子供ながらにして「諦観」を覚えるような状況が出来上がってしまっている。共存とは表面上の言葉に過ぎないようだ。

現在のジャップは情勢的に、自分以外の人を気にしている余裕がない人が殆どである。今までは何かあったとき、親切な隣人が厚かましくもなんとかなるように助けてくれることがあった。しかし、無能ジャップ政府が保身のために一般国民を「いじめる」ようになると、殆どの人が余裕がなくなってしまい、隣人を気にかけることができなくなっていった。その結果、弱者に分類される人たちは総じて淘汰されることになってしまっている。基本的人権や人間らしい生活を送る権利は、この世界に存在しなかった




そうならなかった人たちは親ガチャがある程度成功しているか、人間関係ガチャに成功して運が良かった、ということでもある。こうして考えると何でもかんでも「運」が絡んでいて、もはや実力があっても努力したとしても無駄であると、そう思う人が現れてしまうことだろうが、そのことが「親ガチャ」という言葉を生み出したきっかけになると、そう考えることができる。

親ガチャの言いたいことは「格差問題」の再提起か

ここまで見てくると、ずっと前から社会問題として提起され、解決策を模索するも進展が殆どない「格差問題」に行き着く。正直今のままの無能ジャップ状態であれば、1000年かかっても解決しない問題である。寧ろ格差は年々拡大しており、0円スタートなら一生0円、富豪ならさらに富豪になるという、努力ではどうにもならないもの(・・・・・・・・・・・・・・)がそこに存在する。

ジャップは一応資本主義経済であるが、その資本主義にしても極端すぎるわけで、最初からスタートラインにすら立てないのは流石に不平等が過ぎる。しかし救済措置は事実上存在しないか不十分であり、時代の変化に伴った制度の変更も全くなされていない。そのことが、インターネットの発展によってそれまで断片的に発信されていた情報が簡単に取得できるようになったことも影響しているものと考えられる。

その情報がよりにもよって子供でも簡単に取得できてしまうので、それが積もりに積もって日本不信や未来への絶望、否定的反応と共に、上級國民の頭から都合よく忘れ去られた「格差問題」の再提起を、「親ガチャ」という言葉によって行った。そう考えている。単純な批判・否定的な言葉以上の意味が、そこに込められているのだ。

結局「格差問題」に行き着く、最適解はこれの是正か?

「親ガチャ」、多くにとって突如現れたこの言葉を私KIBEKINが、素人分析ながらも調査し、考えを述べてきた。考える中で浮かんできたのは、格差問題だった。昔から議論されているわりにはその格差は一向に埋まらず、寧ろ格差が現在進行形で拡大している。しかも、上級國民や高所得者ばかり優遇する税制度のせいで、弱者から徹底的に搾取しまくっては自分らは何のダメージを負わずにのうのうとしているので、何度も言っているが腹立たしい限りだ。

そんな無視されまくっている格差問題をたった一言で浮き彫りにしたこの言葉、一部の人は「不快な言葉」と認識されていて、どうしても気軽には使えるものではないようだ。しかし、この言葉が誕生し使われたからこそ、今一度格差問題と真面目に向き合う機会が出来たのではないだろうか。つまり、この言葉が自然と使われなくなるようにするには、格差の是正が最適解ということになる。

が、突然そんなことを言われても、すぐには変えられないのが現実。もっとも死のコロナウイルス情勢では、それどころではないと言われるのがオチだ。したがって、格差問題を忘れないために、そして是正を行うためには「親ガチャ」という言葉は、積極的には使うべきでないがその言葉を否定しないようにすべきだ。いつの日か適切に格差の是正が出来たとき、この言葉が自然と消えていくことを願い、私の意見とする。

 

以上、「親ガチャ」その言葉を両面から考える、であった。それでは、次回の記事で会おう。ン、バァーイ!

 

KIBEKIN at 13:31 Sept. 24th, 2021


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脚注

脚注
本文へ1 参照:「親ガチャ」話題で「子ガチャ」にも注目「絶対に許さん」など厳しい声 – ライブドアニュース この記事の3段落目にある。
本文へ2 参照:親ガチャとは?意味やランクの基準、当たりやハズレが気になる! あくまでインターネットであちこちに散乱する情報を1つにまとめたものであるが、見やすくはある。
KIBEKIN
会社員という働き方が合わないのに会社員になってしまってから、半ば自分からリタイア後ブログクリエイターとなり活動してきた社会不適合者。今後の活躍の約束とHIKAKINリスペクトの意味を込め、リンクス岐部からKIBEKINに改名した。

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