この記事の概要を簡単まとめ!
- 死はいずれ来る「生物」故の避けられない宿命
- 身近な人、祖父を失う経験を直近にした
- 真夜中に突然の「心臓麻痺」で誰も気づけずに亡くなった
- 少し経って考えたのは「死に方」の問題
- 「生きることを諦めた」とは到底感じられなかった突然の死
- 延命治療によっていつまでも生き長らえるのは拷問か否か
- 持続する苦しみよりは突発的な一瞬の出来事の方が楽か
- 祖父の死後、今後の生活については実質「不明」
- 「どう死ぬか」はある意味一生議論される課題である
突然のことに気が動転したり足をすくんでしまうことなく対応できる人というのは少ない。多くの場合は、発生する事象が想定されていない状況であることが多いために、対応マニュアルがそもそも存在せず、その結果どうしたらいいかわからずに立ち往生してしまうということが往々にして発生しやすいためである。かといってそれに対応するためのマニュアルを作成したとしても、その通りに進むことは100%ではない。難しい問題である。
そして突然のことと言えば、人の死も突然のことの代表格だ。病気で余命宣告されたがそれ以上に長生きすることもあれば、普段の生活で気を付けていても不慮の事故や内臓系の病気などで死んでしまうことだってある。死亡理由も、直近の怪我や病気が原因であればそれとは無関係なこともある。そのため、本当の死因は解剖しなければわからないということも多くなってきている。
ところで家内の話となるが、2022年2月22日、私の祖父は静かに息を引き取った。26年間、同じ家で一緒に生活し、色々と文句を言いつつも遊んでは美味しい物を分けて食べていた大事な家族である。晩年は身体に様々な問題が発生し、それに対応するために病院に行っては薬を貰い、それを飲んで、さらには食事療法も行っていた。しかし死ぬ2週間前後はどういうわけか、わがままを言って動こうとしないことが多くなり、それはまるで「死ぬことを予知していた」かのように振る舞っていた。そうだと考えたのは死んで少し後だが、両親とも話しているうちに思ったことがある。今回はその思ったことを、自分の気持ちの整理と切り替えも兼ねてここに書き記していく。